『さとりの授業』(阿部敏郎)を読んで

 
いまここ塾の阿部敏郎氏については、悟ったと言っている日本の人として視界の端に入ってはいたのですが、ブログや著書に触れてみようと思ったことはありませんでした。

友人が阿部敏郎氏の講演会に行ったというのを聞いたりしたことで気になっていたのは確かなのですが、「元ミュージシャンに何が分かるか」という偏見とひねくれ根性のせいで遠ざけていたのだと思います。

でも、先日地方都市に行ったとき、持参した本を全て読んでしまい書店に行くと、めぼしい本が『さとりの授業』しかなく、帯に山◯夫妻の推薦文が載っていることに気づいて一度棚に戻したものの、やはり他に候補がなくそれを買いました。

彼のブログの投稿をまとめていくらか加筆した本のようで、「アセンション時代を生きるために云々・・」といういかにもな副題のわりにはまともに思える内容でした。

特にいいなあと思ったのは、悟りや覚醒に対する無用の期待をさせないようにしている点(悟った自分でもこんなにダメなところがあるんですよ、と自然に表現)、全く宗教くささがない点、修行というものに伴うエゴの罠を説明している点、スピリチュアル用語や変な概念体系は少なくあくまでも普通の言葉で語られている点、そして悟りは彼方にあるものではないと何度も明示している点、それから明らかに何も隠していないと感じられる点です。「神はすべてを意識している」とか「自分を神の道具として使ってもらえるように祈る」とも書いてあって、「すべては空」で片付けていないところも好きな点です。(と分かっていない僕がすいぶん偉そうですが、そういうことを言われても怒らなそうな感じもいい点です)

それと、覚醒のために個人ができることは何もないが、覚醒したときのための準備はできるとして三つだけ書いてあるのは面白いと思いました。ちなみに食べ物、情報、瞑想習慣です。タバコ、酒、肉、添加物を減らし、テレビや新聞や暴力的な映画への接触を減らし、定期的に瞑想をするということです。

意外と(失礼)正統派な感じで、自分が阿部敏郎氏の何に抵抗していたのかなと逆に問うことになりました。

たぶんいろいろな自分の疑いとか好き嫌いを彼に投影していたのだろうと思います。ラマナ・マハルシに完璧さを投影しているのと大して変わらないかもしれません。その意味では本を読んでみてよかったと感じました。

とは言っても、フランシス・ルシールの言うグルを選ぶ三原則(知性、フィーリング、美)から考えるまでもなく、もっと阿部敏郎氏の話を聞きたいという感じもしていません。不思議ですが、ご縁なので仕方ないですね。

(2013年2月追記: このページへのアクセスがかなり多いため、最近の僕の見方を付記しておきたい。本で何を言っているかということは、それ自体としてはほとんど何も意味していないと感じている。なんらかのニーズに阿部氏のメッセージなり提供しているサービスが合致していることはあるのだろうが、自分としては彼のメッセージに関心はない。)

(2015年10月追記: 最近このページに大量にアクセスがある。「阿部敏郎 批判 ブログ」といったキーワードでやって来ているようだ。この関連についてはしばらく前に記事を書いた)

広告

『さとりの授業』(阿部敏郎)を読んで」への2件のフィードバック

  1. >覚醒したときのための準備はできるとして三つだけ書いてあるのは面白いと思いました。ちなみに食べ物、情報、瞑想習慣です。タバコ、酒、肉、添加物を減らし、テレビや新聞や暴力的な映画への接触を減らし、定期的に瞑想をするということです。
    阿部某なる人物は、著書には良いことを書いていても、実生活は違う・・という場合が多々見受けられます。ちなみに私は彼の講演を聞きにいったこともあります。
    酒・タバコに関しては、自身のブログでやめられない とか 多くなっている と書いています。悟ったふりの文章は、多くの悟り関連本を読んでおけば、それなりの文を書くことができます。信じる・信じないはブログ主様の勝手ですが、一方で「騙された」「彼は悟っていない」と声をあげる人が今年に入って増えているのは確かです。

  2. コメントありがとうございます。

    いろいろなことについて、いろいろな思考が起きるものですね。

    瞑想をすべきとか、禁煙をすべきとか、そういうことを言ったとたんに、その言葉に苦しめられるという側面はあるのかなという気もしますが、そんな観察もまたひとつの観念として放っておくしかないのかなと思います(という選択の余地があるというひとつの視点からですが)。

    「通りすがり」というニックネームの人の意見は9割引で聞く、というのもよく起こる思考だったりします(笑)

コメントは受け付けていません。