否定的な感情 ルパート・スパイラ

ルパート・スパイラのウェブサイトのQ&Aを翻訳して紹介していますが、今日は感情についてです。質問の中で参照されているThe Transparency of Thingsというのはルパート・スパイラの著書で、その中に様々なトピックに関するQ&Aも含まれています。

8) Negative Feeling (OASG1)

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否定的な感情

Q. 私がお聞きしたかったのは、感情の役割に関するQ&Aについてです(The Transparency of Thingsの240〜242ページ)。

私はこの部分を何度も読み返しています。というのは、これが大いに助けになっているからです。考えたり観念的であるよりも、見ることや私自身でいることをただ受け入れるということを始めて以来、たくさんのエネルギーと感情があらわれてきています。ときにこれは心地が悪く、感情のあらわれ方はかなり身体的でもあり、ひりひり傷んだりして、全般的に不快です。私はこういったことから様々な方法でいつも逃げてきました。今は以前ほどは避けることがなくなり、以前よりも顕著にあらわれるようになっています。あなたは、こういったものは新しい感情というよりも、層になっていたものが露呈してきたものだということも言っています。これは私にとってはとても説得力があります。

この点について付け加えていただけることはあるでしょうか。

素晴らしい著書に出会えて、またこの質問を読んでいただけることに感謝します。

A. あなたは「見ることや私自身でいることをただ受け入れることを始めて以来、たくさんのエネルギーと感情があらわれてきています」、そして「私はこうしたことから様々な方法でいつも逃げてきました」、それから「ときにこれは心地が悪く、感情のあらわれ方はかなり身体的でもあり、ひりひり傷んだりして、全般的に不快です」とも書かれています。

はじめに明確にしたいことは、私たちはここで退屈、不安、恐れといった否定的な感情について話しているということです。

こうした感情のすべては、身体的な感覚に精神的な要素が加わったものと、明確であるにせよないにせよ、分離している「私」が常にその中に存在している思考とで構成されています。

これらの二つの要素、マインドの「私」という思考と身体の「私」という感覚は、無知の二つの面です。私は分離しているという信念、そして私は分離しているという感覚です。

この二つのうちでは、私は分離しているという感覚のほうが圧倒的に大きな要素です。それは不快な感覚としてあらわれ、もっと微妙なところでは、椅子に座ったり目を通して眺めたりというような身体の中で身体として自分が存在しているという、当たり障りのなさそうな感覚としてあらわれます。

今回の取り上げ方では、マインドのレベルで、私たちが抱いている「自分は分離した個人である」という信念を調べます。そしてそういった信念を裏付け立証しているように見える身体レベルでの感覚を探究します。

あなたが触れたような感情はまさに不快であり、それゆえ私たちはそこから逃げようとします。そうすることで、そういった感情を十分に感じることを避けます。このため、自分の真実の性質というものを知的に理解したとしても、分離の感覚は通常はそのままずっと後まで残ります。私たちは無限であると知っていたとしても(または少なくとも無限であるという可能性を認めていたとしても)、制限されて分離しているように感じます。

不快な感情から逃避するための二つの主な手段は、思考と行為です。不愉快な感情に直面したとき、思考や行為に戻ることで、感情または身体のレベルにある分離の感覚は調べられずに放置されることになり、そのままの状態であり続けます。

したがって、「私」という感覚にとって身体は安全な隠れ場所なのです。発見されることはたまにしかありません。

しかし、真理を求めるどこかの地点で、そして明らかにあなたの場合にはあてはまりますが、逃げようとも変えようとも操作しようともせずにこうした感情に直面する勇気と正直さを私たちは持ちます。

最初に気がつくことは、否定的な感情というのはたくさんあるということです!でもやる気を失ってはいけません。実際のところそれほどまでに多くあるように見えるのは、単にそうしたものを抑圧したり避けたりするのを止めたからです。私たちはこの謎めいていて識別することができない、以前は避けていた感情の塊があるということに気づいてくるというわけです。

こうした感情が、身体的な感覚と、分離した存在である「私」を中心にして展開する思考やストーリーとで構成されていることを明確に理解してください。

いつかの時点で、自分は分離した存在だという信念を、私たちが個人あるいは制限された存在であることを示す経験上の証拠が無いことが完全に明確になるまで、十分に調べてみる必要があります。

でも、いまは無知の感情の側面を扱っています。信念の側面は別に扱います。

いまはただ、自分は制限されてもいないし分離してもいないという可能性に、マインドのレベルで柔軟であってください。そして後で調べるためにその側面は今は置いておいてください。

不快な感情ということに戻って、それに伴いながらそれを支えている信念体系がなければこうした感情は単なる身体的な感覚にすぎないことを理解してください。

そうした身体感覚が完全に中立であることを見てください。それ自体では、それらは好ましいものでも嫌なものでもありません。それらは、自分の中に ― 身体としての自分ではなく、ここにある言葉を見たりまさにこの瞬間に経験されている他のことを経験している気づきや意識である自分の中に ― 現れている感覚の小さな振動です。

この中立的な感覚を完全に受け入れてください。雨や道の往来の音が自分の中にあらわれるように、こうした感覚も自分の中にあらわれます。それは、それがその中であらわれている気づきや意識には決して影響しません。つまり、それがあなたに影響することは決してありません。それにはあなたを支配する力はまったくありません。

あなたがそれであるところの気づきや意識のオープンで何事も受け入れる空間と、その中で起こるすべてのこととを明確に識別してください。このことがいったん明確になると、こうした身体的な感覚はどんな課題でもなくなります。それはそれが望むとおりに自由に現れ、変化し、留まり、消え去ります。

私たちは単純に、すべての身体的な感覚がその中で現れる実在としての立場を意識的にとります。私たちはこうしたすべての感覚 ― それらの存在は気づきあるいは意識である私たちに全く依存しているわけですが ― から完全に自由で独立しています。

この区別が単に理論としてではなく経験として明確になると、身体やマインドや世界という見かけと、それがその中で現れる気づきまたは意識との関係をもう一度考えることができます。この点についてはまた後日。

(Q&A以上)

意識の対象が変わってくると、これまで自覚していなかった感情や身体的な感覚に気がつきはじめるという現象は僕自身も経験したことがあるので興味深く読みました。

「経験上の証拠」というのが苦しみを違った視点で見るにあたってのキーになるようですが、その経験ということについてはいわゆるダイレクトパスと呼ばれる方法で経験的なセッションを彼は提供しています。以前も書いたようにハーディングの頭のない方法にも似ていますが、ルパート・スパイラの独自の表現になっています。

これについては、書かれた言葉では伝わりづらいもののようで、ルパート・スパイラ自身も過去のリトリートやミーティングでのそうしたセッションを以下のように録音という形で提供しています。異常に長い間がところどころに挟まれるのも独特で面白いです。

MEDITATIONS AND DIALOGUES

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否定的な感情 ルパート・スパイラ」への3件のフィードバック

  1. このスパイラさんのQ&Aシリーズはためになります。
    今後も期待しております。
    ボブさんのサイトのQ&Aも訳していただけないでしょうか?

  2. コメントありがとうございます。

    いまのところ、しばらくはルパート・スパイラの方に集中したいと思います。そのような気分です。

    セーラー・ボブについては、英語ですがLiving Realityがおすすめです。というのは、会話の記録がほとんどなのでわりと文章も短く、文脈がはっきりしているので意味がつかみやすいからです。天野清貴さんのフーマンのシリーズと似たような形式です(内容はもちろん全然違いますが)。

  3. >いまのところ、しばらくはルパート・スパイラの方に集中したいと思います。そのような気分です。

    スパイラさんもとことんやってください!!
    とてもためになり興味深いテーマが続きます。
    世界には未知のすごい人がたくさんいますね。
    この人の師匠のルシールさんや、そのまた師匠のジャン・クラインさんにも興味があります。
    ヒロさんが色々紹介してくれるので、とてもありがたいです。

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