行為は行為者の存在を意味するのか?ルパート・スパイラ

 
ルパート・スパイラ(Rupert Spira)のウェブサイトから引き続きQ&Aを紹介します。今回はこれです。

110) Does Doing Imply A Doer?

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行為は行為者の存在を意味するのか?

Q. 私は憂鬱や自己批判的な思考といった「否定的」な感情や身体の痛み・緊張を長いこと経験してきています。それについて質問があります。

A. 肉体的な痛みと心理的な苦痛は関係しているように思えるかもしれませんが、それらは二つの異なるものであることをはじめに言っておきたいと思います。

何か物が落ちてきて、自分に偶然当たってしまったとします。その結果怪我をして痛みが起こったとして、それが心理的な原因によって起こったと言うことはできません。そのような痛みに対しては、身体的なレベルで適切に対応する必要があります。休息したり、医者にかかったり、アスピリン(鎮痛薬)をのんだりといったことです。

しかしながら、心理的な苦痛は身体に収縮を引き起こすことがあり、それが長期間続くことによって慢性的な痛みが起こるかもしれません。そのような場合、身体的な痛みを緩和するための方法がとられるかもしれませんが、その本当の原因は、その発生の源にある心理的な苦痛を引き起こしている何らかのものです。

心理的な苦痛の原因を追跡すると、それは常に、私たちというのは限定されていて特定の位置にある肉体の中にいる、あるいはそうした肉体そのものであるという信念や感覚によって引き起こされていることが分かります。

Q. 私は、「気づきとして生きる」とか「あるがままにゆだねる」とか「自分が気づきであることを知る」といった考えと格闘してきました。私はこうしたことに、私自身の胸の激しい痛みとのつながりにおいて取り組もうと長い時間をかけて努力してきました。そして当然ですが、「努力する」ということは行為することを意味していて、それは何らかの行為をする分離した個人というものを意味します。そして、その分離した存在はそもそも存在していません。私は立ち往生していることに気づきました。「私」がどんなことをしても、痛みと憂鬱の経験は続き、ものすごく苦しんでいます。これは明け渡しと受容ということが起こるかどうかの恩寵次第だと思えます。どのような「努力」も、悪影響を及ぼすように感じます。それなのに努力は続きます。

A. もし私たちが苦しんでいるとするならば、見かけ上の「私」ははっきり存在しています。この見かけ上の「私」が苦しみの原因です。

しかし、もしこの見かけ上の「私」として、「努力は行為を意味し、それは分離した個人が何かをしていることを意味する。そして分離した個人はそもそも存在しない」といった考えを自分自身に重ね合わせるならば、探究すべき苦しみに対してすることのできることを自分からひとつ奪うことになります。

他の言葉で言えば、「分離した個人は存在しない」ということをもし知っていれば、私たちは苦しんでいないでしょう。苦しむと同時に、「分離した個人は存在しない」ことを理解していると主張することはできません。この二つの立場は両立しません。

この場合、「分離した個人は存在しない」という観念は単なる観念であり、非二元というものが私たちが抱く単なる新しい宗教になってしまっています。

しかし苦しみは「分離した個人は存在しない」という観念よりもずっと強いので、その結果として私たちはせいぜい落胆することになるか、極端なケースでは怒りを覚えたり絶望したりします。

苦しみながら、そこからの出口の存在を認めないという状態です。

したがって、私からの最初の提案は、あなたが個人的で限定された特定の位置を持った存在であるという根深い信念や感情が苦しみを引き起こしているということをはっきりと理解してくださいということです。

あなたは、「努力は行為を意味し、それは何らかの行為をする分離した個人を意味する」と言います。これは非常によくみられる誤解です。

一杯のお茶を淹れること、山に登ること、歯を磨くこと、クルマを運転すること、ジョギングに行くこと、楽器を練習すること、そうしたことはすべて努力(試み)を必要とする活動(行為)です。しかしそうした活動、実際にはすべての活動を、自分は分離した存在であるという感覚なしで始めることは全く可能です。

あなたが立ち往生しているのは、苦しんでいると同時に非二元を表面的に信じることによって、苦しみを緩和する可能性を自分自身から奪っているからです。にもかかわらず、あなたはこのような質問をしています。これは、できることは何もないということを、幸いにもあなたは実際は信じていないということを示しています。

あなたは、「明け渡しと受容が起こるかどうかの恩寵の問題でしかないように思えます」と言います。すべてが恩寵次第であることはたしかです。あなたがこの質問をしたいと思った衝動も、恩寵によるものです。何かをしたいという欲求は恩寵です。この返答も恩寵です。なぜ、恩寵が明け渡しや受容という形でしか現れないと決めつけるのでしょうか?

苦しんでいるこの存在は誰であるのか、それをシンプルに正直に自分に問うてみることをおすすめします。私たちが自分自身であると思っているこの存在は、ここにあるこの言葉を見ている存在です。それはこうした言葉を読み、精神や肉体や世界に現れている他のいろいろなことを経験している「私」です。

自分の注意をこの存在に向けてみてください。それを見つけてみてください。それは肉体の中や、頭の中や、見ている目の後ろや、感じている胸の中に見つけられるでしょうか? 見つけられません!それは紛れもなく存在していて、意識していますが、私たちが「私」と呼んでいるその存在は対象としてはどこにも見つけることはできません。

知る知らないに関係なく、あなたはその存在です。自分がどのようなものであるとしても、これらの言葉を見ている存在であるということは明らかなことではないでしょうか? 自分がいつでもそれであるということをはっきりと理解してください。それでいることには何の努力も必要ありません。それでいないようにする努力ならできるかもしれません。その努力の別名は「苦しみ」です。

こうした言葉を見ている主体が何であるのかを見ようとすれば、それがそこにあって気づいているということ以外は何も言えないことが分かるでしょう。それに私たちが投影している他のすべての性質が単に真実でないということを理解することによって、それが消えるのをただそのままにしてください。

あなたの胸の痛みは気づきが気づいているこの空間に現れています。そのままにしておいてください。他のすべてのものと一緒にそれを歓迎してください。そのすべてが生じて自分の中で起こるのに任せてください。

気づきとして生きるというのは、自分がすでにそれであることに気づき、その知るものとして考え感じ行動することを単に意味しています。存在に明け渡すということは、自分がすでにそれであるものを知ることを単純に意味しています。

「気づきとして生きる」ことが悪影響を及ぼすことはありえません。ただ、これまでしてきたような否定と回避という戦術を使わなくなったことによって、以前は抑圧されていた感情が表面化しているのかもしれません。その結果として、苦しみがひどくなったように見えているのかもしれません。ですが、実際にはそうではありません。ただそれを避けなくなっているだけです。

気づきとして生きたり、あるがままにあることによって、あらゆる種類の恐れや不幸が生じてくることがあってもおかしくはありません。そうなったら、そのままにしてください。それらはシステムの中でしかるべき働きをしています。それらが生じる愛情のある空間でいてください。そうしたことをどうにかしようとしないでください。

忍耐強く、揺るぎない態度でいてください。あなたの胸の痛みが中立的な身体上の感覚でしかないことを理解してください。それをそのままにしてください。自分は分離した存在であるという信念がその感覚を支えなくなると、それは生き残るための一つの要素を奪われます。それはあなたの抵抗です。そしてそれは時間と共に小さくなるでしょう。

もしここに書いたことの中で理解できないことや更に質問がある場合は、また連絡をしてください。

(Q&A以上)

非二元論というものが単なる一つの宗教になって問題をさらにややこしくしてしまう可能性について、ここでも触れられています。

そうなると、究極のリアリティを理解した人にとってはアドヴァイタは意味があるのかもしれないが、そうでない人にとっては役立たない観念の上塗りという意味しか持たないのかという感じもしてきます。

セイラー・ボブ・アダムソンとの五週間を記録したLiving Realityという本の中でも、アドヴァイタは知的には理解できるが、経験としては理解できないという生徒の言葉が出てきますが、それに対してセイラー・ボブは「知的な理解というものはない。理解は理解だ」と繰り返します。「頭では分かる」というのは理解していないということなのでしょうが、本当には理解していないという状況も恩寵なのだとすれば、もはやあきらめて笑っているしかなくなるようにも思います。

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行為は行為者の存在を意味するのか?ルパート・スパイラ」への5件のフィードバック

  1. こんにちは いつも楽しく読んでおります

    >セーラー・ボブ・アダムソン

    この人にとても人は興味があります。
    どんな人でどんなことをいっているのでしょうか?
    よかったら紹介してください

  2. ヒロさん、こんばんは。

    さっそく読ませていただきました。

    これだけ文章の翻訳は大変でしょうね。

    ヒロさんの話にもあるように、今回もアドヴァイタが一つの宗教になって危険性について具体的に説明されていますね。

    多分、同じ問題に入り込んでしまう人が多いのでしょうか。

    自分的には、前回は問題が提示され、それじゃどうすればいいの?

    ...に対する一つの答えがある程度わかりやすく提示されたように感じがしています。

    自分の思い違いかもしれませんが、何れ明らかになるでしょう。

  3. kosumosuさん、コメントありがとうございます。

    宗教や新しく寄りかかる信念体系になってしまって、事実の理解ということから遠ざかるという状態については、おそらくルパート・スパイラ自身が経験したことではないかと思います。または20年以上に渡る彼の探求の過程でそのように見失っている人を多く見たのかもしれません。

    いずれにしてもこのテーマは重要であるということでしょうね。

  4. 冬の光さん、こんにちは。読んでいただいてどうもありがとうございます。

    Sailor Bob Adamsonについては、僕は本を二冊ほど読んだだけなのですが、とてもユニークな経歴をもつ人です。

    彼の弟子の中から何人かのアドヴァイタの教師が出ているという意味でも注目すべき人だと思います。今後紹介の記事を書いてみることにします。

  5. ヒロさん どうもです

    >今後紹介の記事を書いてみることにします。

    ありがとうございます。期待しています

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