何かすべきことがあるのか? ルパート・スパイラ

 
ルパート・スパイラ(Rupert Spira)のQ&Aの翻訳の三つ目です。

アドヴァイタでは、すべての人はすでに悟っていて、探求を含めて何かをするということは覚醒や悟りとは関係がないとよく言われます。ですが、実際の覚醒者をみてみれば、多くのケースで長年の修行や探求をしていることも明らかです。

このパラドックスについての見解が示されています。

1) Is There Something To Do?

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何かすべきことがあるのでしょうか?

Q. 多くの師たちは、経験の本質を悟るために見かけ上の個人であるあなたにできることは何もありません、と言います。でも、この見かけ上の個人との同一化が起こっている限りは、探求するより他に選択肢はないように私には見えます。見解を聞かせてください。

A. もし分離の感覚、「私」というものが肉体の中にあるとか、肉体として存在しているといった感覚があるのであれば、そうした思い込みや感覚は私たちの経験の真実を覆い隠します(実際には決して覆い隠すことはありませんが、覆い隠しているように見えます)。私たちの経験の真実とは、私たちは無限の意識であり、それは観照者であると同時にすべての経験の内容であるというものです。

この私たちの本質が見かけの上で覆い隠されていることによって、本質に本来備わっている平安や幸福も、見かけとしては覆い隠されます。

幸福が覆い隠された状態は、苦しみとして知られています。そして苦しみは本質的には幸福の探求です。もし幸福を求めることがなかったら、別の言葉で言えばもし私たちが現状に完全に満足していれば、そこに苦しみはありません。したがって、幸福が覆い隠されること、苦しみ、そして幸福の探求はすべて同じことを示しています。この探求の別名は、「人間」または「存在」です。

このことがわかったとき、見かけ上の分離した存在とは幸福の探求そのものであると単純に言うことができます。見かけ上の分離した存在は、幸福を見つけるために何かできることがあり、それをしなくてはいけないという思い込みです。

この見かけ上の個人として、「すべきことは何もない」と主張するのはまったく不誠実です。分離した存在というものは、それ自体がすでに行為であり、現状の拒絶であり、幸福の探求です。

一人の個人としてすべきことは何もないともし感じているのであれば、それは自分自身を騙しているだけです。現実に直面する知性も勇気もないという不快な気持ちを、アドヴァイタという飾りで覆い隠しているだけです。

遅かれ早かれ、心の奥底で私たちの苦しみはまた浮かび上がり、幸福の探求をさせずにはおかなくなるでしょう。

もし私たちが一人の個人として「すべきことは何もない」と感じているとしたら、実際には私たちは教えに全く接したことがない人たちよりもひどい立場にあるということになります。なぜなら、私たちは苦しんでいるだけでなく、込み入った理屈によって、苦痛の根源(つまり、その苦痛からの出口)を見つける手段そのものの存在を否定しているからです。

苦しみの中にあって、通常の感覚で探求する人は、少なくとも自分の経験を調べることによって苦しみの性質を理解できる可能性があります。

もしこの可能性を否定してしまうと、私たちは立ち往生してしまいます。インドの言葉でこれを表現すると、タマスがサットヴァになりすましている、無気力や恐れが平安になりすましているということになります。

では、何がなされるべきなのでしょうか。理解を求めることです。知的な理解ではなく、経験に基づいて理解することです。疑いの余地なく認識することです。無知というものは、これは経験の本質を知らないということですが、疑いの余地のない理解に対して持ちこたえることができません。無知に光を向けると、それは影のように消滅します。そうなると、もう見つけることはできません。

インドでこれを「無知」と呼ばないのはそのためです。彼らはこれを「無知という幻影」と呼びます。

無知とそれによって生じる苦しみが本当は存在していないことを理解するために、必要なことをしてください。

この探求の結果として、すべきことは何もなく行為をする主体も存在していないという理解が訪れるかもしれません。もしそうなれば、それはあなた自身のゆるぎない知識となり、外部からの確認は必要なくなります。

非常に稀なケースを除けば、マインドのレベルでの分離という観念の調査、そして肉体の中に肉体として存在しているという感覚の探究は、経験に基づいたこうした理解には欠くことのできないものです。これ無しでは、「すべきことは何もない」とか「行為する何者も存在していない」といったことは単なる新しい観念となってしまい、アドヴァイタは興味が尽きない経験上の理解から、単なるひとつの宗教に堕落することになります。

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ということです。この文面だけ読むと、ちょっと厳しい印象を受けるかもしれません。が、このような問答が実際に行われるのを現場で目撃するとき(SAND 2010の話ですが)、そこには深い信頼と愛と喜びというものがあり、まさに疑いの余地のない理解というものが目の前で展開されているという驚きがありました。

このQ&Aを読むと、そこに至るには真剣に向きあうということが要求されているんだなということがよく分かると同時に、ゆるぎない知識がありえるという可能性に喜びを覚えます。

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何かすべきことがあるのか? ルパート・スパイラ」への3件のフィードバック

  1. ヒロさん、こんばんは

    この訳がアップされてから何度も読んでいたのですが、どうも意味がよくわからないまま今日になってしました。

    何故か今日になって、質問や回答が自分の中で自然に流れるようになりました。

    英語と比較すると、日本語訳の方はだいぶ取り組み易く感じます。

  2. kosumosuさん、読んでいただいてありがとうございます。

    翻訳した文章を紹介しておいてなんですが、書かれた文章というものが本当に一部しか伝えないんだなあということを今回感じています。

    たとえば、全く同じ回答が二人の違う人の口から出た場合、それを文字で書いてしまえばそれは同じになってしまいますが、目の前で本人が話した場合は全くニュアンスが異なるものになることもありえると思います。特にこの分野は微妙なレベルのコミュニケーションというものが重要な役割を果たすような気がしているのでなおさらです。

    とは言っても、自分の勉強になっているので、翻訳紹介は続けたいと思います。

  3. ヒロさんの心配はわかるつもりです。

    話をした人、翻訳をした人、原文を読んだ人、翻訳を読んだ人、すべて別の人が別の背景で学んだ言葉を使い理解しようとしているのですから。

    そして、ここで話されているテーマは本来言葉が役に立たない分野に足を踏み込んでしまっています。

    また、同じ人が同じテーマに対して、話す相手や時期によってまったく別のことを話すことは当り前のように行われると思います。

    ただ、自分が言うことができるのは、自分が理解できることは自分が理解できる範囲なので、伝えようとした内容とは一致してはいないと言うことだと思います。

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