学校教育のこと

すべての表現が神の完璧なあらわれであるとすれば、ひとつひとつの現象に一喜一憂することもないかとも思うのですが、まさにその一喜一憂や要らぬ心配そのものがリーラであるなら、まあ気にせずにそのままでいいのかもしれません。

先日書いた町を離れて山の近くに住みたいという考えと共に、この半年ほど頭をぐるぐる巡り続けているのが学校教育のことです。

そもそものきっかけは、二年半ほど前にアメリカのサドベリーバレースクールという自由教育の学校を見学したことでした。学年もカリキュラムもなく、学校の規則も職員の雇用継続の是非も生徒によって決められるという究極の自由学校です。当時の僕は、社会で生きていく人間として規律と学力を身につけることは大切であるという考えだったので、これはひとつのショックでした。

言われてみれば、たとえば二年生だからと言って本人の興味に関係なく二年生でこなすべきとされている学習をこなし、先生が言うことは疑問をはさむことなく粛々と行動に移すということが誰のために行われているのか、というのは考えたこともありませんでした。

サドベリースクールに自分のこどもを通わせている公立学校の教師の女性と話す機会がありましたが、問題児扱いされていて元の学校から事実上放校された彼女の息子さんは、サドベリースクールに転校して初めて学ぶことに目覚め、それまで国語も算数もまるで興味なしだったのに、今では大人がするような社会問題の議論をするようになったということでした。算数は、興味をもった途端に数年分を数週間で習得してしまったそうです。

僕自身は、社会人生活での見聞によって、学歴と幸福があまり関係ないという(当たり前の)ことは理解していたつもりだったものの、普通に行われている学校教育からそこまで離れたものに実際に触れることで、興味をかなりかきたてられました。

その後は自分のことでいっぱいいっぱいでしばし忘れていたのですが、今年に入って興味が再発し、きのくに子どもの村小中学校を見学したりしています。うちの二人のこどもは普通の公立小学校に通っていますが、そろそろ友達が進学塾に通い始めたりするようになり、いろいろと考えてしまいます。

現在の公立の学校の実態をちゃんと知っているわけでもないのに、きのくにのような自由教育の学校を必要以上に理想化することは危ない気もするし、自分のインナーチャイルドの満たされていない部分を無自覚に投影しているかもしれないので、慎重でありたいとは思っています。

と思っていたところに、昨日ルパート・スパイラ (Rupert Spira) から届いたニューズレターに、「こどもや孫が学校教育にかかわっている人は見てください」と、以下の講演のことが紹介されていました。

ケン・ロビンソン「学校教育は創造性を殺してしまっている」

このケン・ロビンソン卿が4年後に行った講演もあります。


(view subtitlesのところをクリックしてJapaneseを選択すると日本語字幕がつきます)

ダンサーであることを見出されたこどもの話のところで相当感動してしまったのは、自分にもある意味で同じように一定の才能を見出してくれた大人との出会いがあったことと、自分がそのように才能を見つけることができる人にもなれる(逆に潰す人になるかもしれない)ということ、そんなことを想ったからでしょうか。

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