SAND2010をふりかえって

Science & Nonduality Conference

カリフォルニアで開催された今回のScience and Nonduality Conference 2010 (SAND 2010)に参加してみて、いろいろ気がついたことがあります。今の時点で印象に残っていることを書いておこうと思います。一ヶ月もたてば別の捉え方をしているだろうなあという気もしますが。

  1. 生きている実例に触れる意義
    このカンファレンスに行くまでの間、集中的にアドヴァイタの関係の本を読んだり、関連動画を見たりしました。それにより、アドヴァイタで言われていることが少しは理解できたような気がしていたのですが、それを実際に生きている人たちと接することで、無駄な幻想から多少自由になったように思います。
  2. 万人向けのグルはいない
    食事のときに一緒のテーブルになった人たちと、「今回誰が印象に残ったか?」という話を何度もしていたのですが、人によって本当に様々で驚くほどでした。また、ジェフ・フォスターが言っていたのですが、カンファレンスの彼のオープニング・スピーチの後、3人の人が彼のところに寄ってきたそうです。一人は「old ladyという言葉は大変失礼だ!」と言葉の選択について憤慨し、二人目は「素晴らしかった」と言って大きくハグをし、三人目の人は「あなたの考えはあまりに危険すぎる。こういうのはすぐに止めるべきだ」と抗議したということでした。多様な立場、多様な理解、多様な表現があり、それは優劣ではなくただの違いだということなのかなと感じました。
  3. 探求のやっかいさ
    ニサルガダッタは探求には熱心さと集中が必要だと強調します。ラーマクリシュナも恋人を愛するほど神を求めよと言います。逆に探求こそが邪魔になっているということは今回のカンファレンスで何度も聞いたことです。段階によって違うのだという話も聞きました。結局どうすればいいんだ?というのは難しいところだと思いました。どっちでもいいのだと手放せればいいのでしょうが、それがわざと手放すのであれば違うような気もしますし・・・。やっかいです。
  4. 覚醒への道程の共通点
    スコット・キロビーが20年間の薬物中毒の末に覚醒にいたったストーリーを紹介していたのですが、10代からアル中だったセイラー・ボブ・アダムソンや強い欝で完全に行き詰まったバイロン・ケイティにも見られるように、ある種の絶望やあきらめ、極端な何かとの直面といった状況で覚醒が起こるというのは共通点として考えられるという気がしました。個人としての主体的なコントロールを完全に放棄する局面で何かが起こるということなのか、このあたりは興味深いと思いました。ただし、深く絶望しても覚醒しない人のほうが圧倒的なのも事実です。
  5. 悟後のこと
    いちど覚醒したからといってハッピーエンドというわけではない、ということも今回あらゆるところで言われていたことでした。覚醒した後もまわりの環境によっては引き戻されがちになったり、肉体の時間というものが存在しているせいでその慣性が働いたり、ともかく深まりまたは定着といったようなものがあるのだということは分かりました。
  6. 覚醒が増加している?
    何度か、覚醒といわれる現象が以前よりも増えているのではないかという質問があったのですが、これについては100年前と比較すれば明らかに加速していると答える人もいて、たとえばルパート・スパイラはこれは情報通信手段や輸送手段の発達によって意識の交流が行われやすくなったことに起因するのではないかと言っていました。ちなみに2012年とかアセンション云々という話はこのカンファレンスでは錯誤や誤解の代表的な例として完全にジョークのネタになっていました。
  7. 女性性
    直接女性性について語られる場面は少なかったように思いますが、講演者から受けた印象は、強い男性性というものを感じないということです。と言って、女性性について直接話さないことから考えても、意図的にその面に取り組んだということでもなさそうです。と言うことは、覚醒とその後の過程で女性性と男性性というレベルで何かが起こるのかなという気がしました。または逆に普通の男性が男性性というものに無意識にしてもこだわっているということは相当大きな無明のもとになっているのかもしれないとも思いました。
  8. 体験からの自由
    あるワークショップで、質問者がインドでディクシャの儀式(?)のときの彼の超越的な体験について興奮気味に話していました。そのとき、壇上からのコメントは「で、いまはどうです?」というものでした。質問者は「いまは普通です」と答えていたのですが、体験は起こっても必ず去るのだからそれにこだわっても仕方ないということだと思います。これも本などではよく言われていることなのですが、体験の罠についていろいろなところで語られていて、実感として理解できた気がします。どんな超能力的な体験でも、体験は体験である以上、本質的なものにはなりえないし、逆に過去の再現を求めてしまうマインドのいつものパターンにはまりがちということでしょう。
  9. やはり分からないパラドックス
    といろいろ書きましたが、結局やっぱり分からないことは分からないということに尽きるという印象です。すべてが逆説に満ちていて、でもそれが少しも逆説になっていない地平というものがあるというのはまさにミステリーだと思いました。

あとは僕にとっては、今回ルパート・スパイラ (Rupert Spira) のことを知り、彼のダイレクト・パス的な指し示しの実践を体験できたことは大きなことで(こちらの記事)、その一点だけでも参加できたことに幸運を感じています。

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SAND2010をふりかえって」への2件のフィードバック

  1. ヒロさん、はじめまして。
    大変興味深いレポートをありがとうございます。
    海外アドヴァイタには着目していましたが、日本語ではまだこの手の情報は少ないですし、現地の情報をこのように伝えられる方というのは希少ですね。
    聴衆の様々な反応が面白かったです。
    日本でもこういうのやればいいんですけどね。

  2. comoさん、読んでいただいてどうもありがとうございます。

    確かにスピーカーの話も面白かったのですが、どういう人が聞きに来ているのかなというのも面白かったです。当然ですがニューエイジ色はほぼ無くて、何かの特定の雰囲気というのがあまり感じられなかったなと思います。修行者!という感じでもなかったかもしれません。ただ、世界から集まっているはずですが、白人率はとても高かったです。

    フラワーエッセンスの関係の方から、世界のエッセンス関係者が一同に会すカンファレンスが日本で行われたことがあると聞いたことがあります。それが日本で起こるべきことであれば、起こるのでしょうかね。

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