小聖は山に隠れ、大聖は市井に暮らす

この半年ほど、東京を出て空気のきれいな静かな山の暮らしがしたいという考えにとりつかれています。

藤野で鮮やかで深い夕焼け空を見たとき、雨の熊野で新緑の輝きに歓喜を覚えたとき、雲取山からの下りの尾根道で風と陽の香りに接したとき、そんな瞬間が重なるにつれ、その思いが強まってきました。

実際、今年の夏以降、藤野に古家を見にいったり、福井の山の方を旅した際は「ここに暮らしたら・・・」と夢想してみたり、北杜市の地図を眺めてため息をついてみたり、ということをしています。

目的は何か、何を求めているのかというと、自分でもはっきりはしません。が、東京で電車に乗るたびにこの思いは強くなり、また家のまわりの地域がほぼすべてコンクリートで覆われていることに気づいては、森へのあこがれはつのるばかりです。

ただ、東京を出て山へ向かうことについては、どこか後ろめたい気持ちがあることも確かです。自分だけ自然環境のいいところに移動して気分よくなればいいのかとか、東京に象徴される消費中心生活を物理的に離れたとしても自分のなかの消費やそれを通した差別化への衝動は何も解決されておらず意味がないのではとか、そんなことも感じます。

「小聖は山に隠れ、大聖は市井に暮らす」という言葉があるそうです。「小聖は山にこもり、大聖は街中に潜む」とか「小聖は山に入り、大聖は市にかくる」という言い方もあるようですが、このことわざを眺めていると、自分が何を目指しているのか問い直す必要も感じてしまいます。

八ヶ岳南麓地域に4年前に移住した東京出身のご夫婦と少し話す機会が数週間前にありました。ずいぶん長い間移住を検討されていたようですが、今は「なぜもっと早く来なかったのかと思う」と二人で口を揃えていました。セラピー系のことをされている方たちなので、自然に近い生活で感性が鋭くなっていることが役立っているのでしょうか。

僕自身の場合はどうありたいから山に近い生活がしたいのか、その根本のところを考えてみる必要もありそうです。

まだ結論は出ていませんし、家族のこともあるので簡単に決めることはできないことですが、最近はこのことを考えていることが多いです。3年後とか10年後にこの迷いのことを振り返ってみるのも面白そうな気がしていますが。

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