ニサルガダッタと方便

今読んでいるSailor Bob AdamsonのLiving Realityという本の中に興味深いエピソードが書かれていました。

ラメッシ・バルセカールが師であるニサルガダッタに、「なぜサットサンのときに詠唱や祈祷などの宗教的な行為をするのですか?」とある時質問したそうです。

それに対し、ニサルガダッタ・マハラジは「ヒンズー教徒をふくめて、ある一定の宗教的な人々の中には、そのような形式的なことがふさわしい人たちもいる。」という意味のことを答えたということです。

彼のアドヴァイタ的な教えを理解するレベルにない、またはその時点ではその必要がない、ということでしょうか。先日ニサルガダッタのサットサンの模様を記録したDVDを観たときに、ヒンズー教式のチャンティングを行っていることが印象に残っていたのですが、これを読んで合点がいきました。

五井昌久氏も、講話のなかでたびたび「現世利益追求を目的として宗教に入ることも悪いことではない。それを通してもっと高い目的に導かれることがあるからだ」ということを言っていますが、方便としての宗教形式儀式と同じようなものかもしれません。

そう考えると、いまの自分が考えていること、行っていることはたとえば10年後の自分から見ると笑ってしまうようなことが多いかもしれませんが、現時点では常にふさわしいことをしていて、それでもちゃんと導かれているという信頼があればいいのかなと感じました。

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