アジャシャンティのインタビュー

The Sunという月刊雑誌に掲載されたアジャシャンティ(Adyashanti)のインタビューを読みました。(Who Hears This Sound?)

アドヴァイタの流れで悟った人がサットサン(satsang)というものを開くことが一種のブームのようになっているようです。サットサンのスケジュールを示した専門サイトを見ると、確かに毎日のように米国や欧州のどこかでサットサンが開かれています。ガンガジやトールと並んで、その「教師」の中でのスター的な存在がアジャシャンティだというのですが、62年生まれの比較的若い人です。本名はStephen Grayといい、カリフォルニア出身、現在もカリフォルニア在住だそうです。

Adyashantiの講話のひとつ

インタビューで語られていることは、ラマナやニサルガダッタの言っていることと近いようにも思えますが、奥さんもいて普通にドライブや旅行を楽しむ40代のアメリカ人男性だという個性のせいか、表現に独特の親しみやすさもあります。

印象に残った部分を抜き出してみようと思います。

  • 一度覚醒したからといって、その状態に留まっているということではない。留まり続けたとき、それは悟りであると言える。ほとんどの覚醒は、少なくとも初期の段階においては、一時的なものである。
  • 覚醒を最も困難にするのは、覚醒が未来の出来事であるとする考えだ。真実はいまこの瞬間に存在する。スピリチュアルな修練の意味は、基本的に探求者を疲れ果てさせること。その意味では修練は意味があるともいえるが、修練が覚醒をもたらすということではない。
  • 自分はもう何の修練もしていない。覚醒が本当に起こり、そこに留まることができるとき、修練を行う理由は何もない。時に瞑想をすることはあるが、それは修練ではなく、目的を持って行うわけではない。
  • スピリチュアルなウィンドウショッピングには、絶えず落ち着くことがないという危険が伴なう。それを続けると、私とは誰か?という問いに向かうことができなくなる。
  • スピリチュアルなグルは、周りの人々によって不適当な投影を受けがちであり(「覚醒した神のようなお方!」)、そうした不健全な環境においてはカルト化するリスクもある。悟った人は誤ったことをしないというのは幻想であり、気をつけている必要がある。
  • 条件付けというものは、覚醒の前であっても、覚醒の後であっても、必ず取り扱うことになる問題だ。覚醒の体験をしたとしても、心理的な葛藤や過剰なエゴの働きが残っていると、悟りの邪魔となる。その点では覚醒や悟りを求める人にとって心理療法というのは有益な場合がおそらく多い。
  • 結婚が悟りにどう影響しているかは正確にはわからない。が、自分を「教師」として見ない人が自分のまわりにいることは良いことだ。
  • 自分の話を聴きに来る人がこれほどまでに多くなるとは全く想像していなかった。自分の教師(Arvis Joen Justi)の集まりには、せいぜい15人くらいの参加者が来ていて、場所は彼女の家の居間だった。私はただの声で、私の話は私についてのものではない。集まりの規模が大きくなればなるほど、これが自分のことについてではないことがより明らかになっている。自分は何かを表現する声というポジションにたまたま収まったというようにしか言えない。

詩的な美しさやユーモアという意味で、僕自身はアジャシャンティよりもイギリス人のジェフ・フォスター(Jeff Foster)に最近は惹かれているのですが、二人に共通するのは分かりやすく率直で構えない表現だと感じます。それと、ストーリーというものから解放されている気持ち良さというのを強く感じます。

Jeff Foster – The End Of All Seeking

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アジャシャンティのインタビュー」への3件のフィードバック

  1. 初めまして、静香と申します。
    アジャシャンティと検索を掛けて見つけました。
    4〜5年前アメリカ在住時から気になっていて、今年9月に彼のサイレント・リトリートに参加予定です!
    日本ではまだ知名度が低いようですが、本(End of your world だったかな?)の日本語翻訳が出版予定と聞きました〜

  2. 静香さん、初めまして。
    コメントどうもありがとうございます。
    リトリートに参加されるんですね。
    どのようなリトリートだったか、ブログでのレポートを楽しみにしています。
    邦訳の話は初耳でした。とても楽しみです。
    情報どうもありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

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