暑さの日々

 
お盆が近づいてきた。

この時期になると、毎年そうだが探求モードが弱めになる。海で回遊魚が釣れ始めるから意識がそっちに向かう、ということもあるのだろうが、基本的にギラギラの太陽と探求は自分の中では両立しない。

先週は子どもと伊豆に行って海水浴と釣りを楽しんだが、海につかってバタバタしていると、ただの生き物になる。溶ける。生き物未満の何か。何かでさえないかもしれない。

ダイレクトパスの訳書が出たばかりなのに、こんなことを書くと怒られそうだが、頭を使う探求などできるわけがない。太陽がまぶしすぎる。

そのかわりに、バクティ的なものに対する関心が少々高まっている。

以前は、バクティというとハレクリシュナ型のキールタンがスタンダードだと思っていた。(こんな感じのもの)

でも、ヒンドゥーの神々は自分にはそこまでしっくりこない。うっとりしながらバジャンのテープを聴き続けていた時期もあるが、今は無理だ。そこまで夢中になれない。どちらかと言えば、テゼ共同体の歌のような欧風のものが今は好みに合う(こんなの)。

ただ、これでもちょっと具象的すぎる気がする。人工的とまでは言わないが、文化的色彩が濃すぎるのだ。バクティといっても、神像や歌のような具象性が高いものではなく、何かもっと透明で爽やかな帰依対象はないものだろうか。

案外、太陽崇拝とか、自然崇拝的なものがいいのかもしれない。いずれにしても、自分を投げ出す気持ちの良さに惹かれる。

話は違うが、いつも面白い「SHIROWの自由帳」で、「みしろ」について書かれていた。ジョン・シャーマンのメソッドに関連した話で、この記事の「※ここから追記」以降にある。

ジョンのメソッドをやってみた人は、「そういえば」と感じるのではないだろうか。僕自身も、当初感じていたギャップ、距離、重み、もしくは方向を変える「よっこらしょ」的な感覚がだんだん少なくなっていることに一時期気づいたことがあった。

そのときに面白いのは、「以前はこう感じたはずだけど」と思ったときに、「でも、その感覚の記憶は今どこにあるのかな」という疑問が出てくると、なんとなく「ニヤっ」としてしまうことだ。何の「ニヤっ」なんだろうか? 谷崎テトラ氏が昔どこかで書いていたアルカイック・スマイルのことを思い出す。ギュッという感じの笑み。

ところでまた別の話だが、Youtubeを見ていたら、トニー・パーソンズのミーティングで数年前によく見かけていた人たちがいつのまにか「先生デビュー」をしていることに気づいた。この人や、この人。他にもいるのかもしれない。

動画の出だしを見ていると、「まだこの形式でやってるの?」と少し呆れてしまう感じがする。わかっていない(と想定されている)人たちに対し、すまし顔で「説教」を垂れている。冗談じゃなければ、何なのだろう。

そんなことをちょっと考えていたら、「悟っている人 vs 悟っていない人」という冗談としてしか成立しないこの構図について、高木悠鼓さんのメルマガに劇的にわかりやすい説明が載っていて、感動した。「神の実験室通信69号」(2016年7月31日)

引用したい (一部改行を改変)。

さて、話は少し横道にそれるが、 「実験の会」を主催している私(高木)に、「あなたは特別な悟りの境地に到達したのですか?」 とか、あるいは「あなたは何か特別な悟りの経験をしたのですか?」みたいな質問を向ける人がたまにいる。面と向かって尋ねる人もいれば、遠回りに尋ねる人もいれば、本当は尋ねたいけど黙っている人もいる。

前にも書いたことがあるが、「あなたは悟っていますか?」とか「あなたは特別な悟りの境地に到達したのですか?」というような質問は、考えてもみれば非常に滑稽な質問だ。

なぜそういった質問が滑稽かと言えば、「覚醒、悟り、気づき」と一般に呼ばれているものは、「あなたは悟っていますか?」という質問をする人の側、主体にしかないからであり、自分が見るどんな対象物(人)も、「悟ったり、悟らなかったり」することはできないからである。

なんとわかりやすい! そして、「先生がた」に対するもろもろの違和感もすっきり片付く。

高木さんの訳されたダグラス・ハーディングの To Be and not to be, that is the answer は、今年出版される予定だそうだ。ちょうど夏の暑さが終わって探求モードが戻ってくる頃に発売というタイミングの良さ。寒い風が吹き始めてからになるとしても、それはそれでありがたい。

フィリップ・ルナールさんの話 (4)

 
その翌々日だったか、フィリップの許可を得て、また彼の家に向かった。

その日にした話については、じつはあまりよく覚えていない。実際、イギリスでサッカー記者をしている息子さん (僕と同じ年代) の話をしていたくらいだから、半分は世間話だったのかもしれない。

ひとつ覚えているのは、アレクサンダー・スミットの否定的な側面について彼が書いたエッセイの話題だ。そのエッセイのなかで、アレクサンダーにも女性関係、金銭関係、そして権威的な面で問題があり、それはグルと弟子という力学のなかでは簡単に生じてしまう性質のものだから、教える側も教わる側も十分注意すべきであるとフィリップはユーモア混じりに訴えている。

アレクサンダーの分厚い対話集にかなり熱心な感じの序文を書いている人にしては、ずいぶん率直な批判だなと思い、よくそんな勇気がありましたね、と尋ねると、「あれは他の生徒たちからはずいぶん批判された。書いたことは今でも正しいと思っているけれども」ということだった。

ただし、グル的な存在の意義についてはフィリップは大いに認めていて、認識が伝播するという側面に関しても肯定的なようだった。それでも、依存的な関係が生じてしまえば、そこには真理探究とは別の力学が生じてしまうので、やはり注意深さは必要だという見方を示していた。

そんな感じでいろいろと話しながら、自分は何を求めてここに来たんだろう、と思っていた。Holy Sequenceの第二以降を「極めた」人がどんなふうなのか実際にたしかめてみたかったのか、それとも何かの方法を教えてほしかったのか。

最初の意図がどうであったとしても、その日の帰り道に感じていたのは、自分で見つけるしかないんだなという当たり前のことだった。もちろん対話や本には意味があるし、ミーティングにも娯楽以上の意味があるはずだ。それでも、最後は自分で見るしかない。どこかに何かを預けられると思っているかぎりはだめだ。

そんなことを考えていると、妙にすっきりして、それが心地よかった。

おしまい。

フィリップ・ルナールさんの話 (3)

 
話は戻るが、フィリップの書棚には大量の本や資料が並んでいて、部屋に足を踏み入れた瞬間に、「あなたは大学の教授か何かですか?」と質問したほどだった。

背表紙を眺めていると、最近はこれが気に入っているんだよと言いながら、何冊かの本を見せてくれた。

盤珪の語録の英語版、イブン・アラビー関係の本、トゥルク・ウルギェン・リンポチェのAs It Isといったもの。禅ではなくチャン (Ch’an) の方が好きだとも言っていた。

「ニサルガダッタやアートマナンダについて非常に造詣が深いし、エッセイの中でも、自分はニサルガダッタが属していたナブナート・サンプラダヤの『オランダ分派』にいると言ってもいいと書かれていたので、ヴェーダーンタが一番好きなんだと思っていましたが」と聞くと、「どちらかと言うと、非二元の普遍性を重視している。だから、インド系だけ、スーフィーだけ、ゾクチェンだけという接し方は自分はしていない。とても豊かな世界だから。逆に文化的なカラーリングが強すぎると、それによって失われたり隠されたりする要素もある」という答えだった。

そのあとで、前の記事で書いた Holy Sequence の話に入ったのだが、第一に優先すべき点については具体的にどのように教えているのか?という質問に対しては、こんな感じの答えが返ってきた。

「教えるというよりも、今そうなっていることを真剣に見ることだ。自分はどこから見ているのだろうか、と問う。しっかり見る。見ている対象ではなく、見ている元、それがなければ絶対に見ることは起こらないそれを見ることだ。そこから外れないようにするのが私の役目だ」

フィリップ自身はアレクサンダー・スミットのサットサンに通っていた80年代に、真剣に探求しようと決め、家族からしばらく離れ、数冊の本だけを持ってスペインの田舎を一人で旅したらしい。その途中で決定的な体験をして、自分が何であるか、そして世界の本質がわかったそうで、それは深まるということが絶対にありえない理解、認識だったと言っていた。

その話しぶりからすると、真剣さ、情熱が何よりも大切だというふうに聞こえたが、実際この「第一に優先すべきこと」に関する話をするときにだけ、フィリップの声は急に熱を帯びて、人が変わったように力強く響く感じがあった。

その4へ続く。