Twitterをはじめとして、ついついチェックしてしまうアプリを、スマホからごそっと削除した。なんとなくバランスがとれていない感覚が最近強まっていたからだ。釣りの最中にもメールをついチェックしてしまうことにうんざりしたり。そのうち復活させたくなる気もするけど、とりあえず今はすっきりした気分。
そんなことをしていたら、アーシングという行為についてはいたか鳥さんのブログで知った。
ゴム底靴の普及が不健康の要因のひとつというのはすごく面白い。いろいろなグラウンディングがある中、これはまさに物理的に身体をグラウンディングさせるもので、概念が介在していないところがとてもいい感じだ。
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ブログ 神様のかくれんぼのsunflower4pさんご夫妻がアメリカから久々に日本にやって来られるというので、忙しいスケジュールのなか時間をもらって、先週東京でお会いした。
非二元に関するいろいろな話もしたけれど、まっすぐな感じ、覚悟のできている感じがともかく印象的だった。逆に言えば、自分の曲がっているところ、覚悟のないところを如実に見せられた気がした。
ネット依存には抵抗があるけれど、こういう出会いが可能になるというのはまさにネットの恩恵。
ここのところなぜか海外在住 (または配偶者が外国人) の人とのご縁が続いている。
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ネット経由のご縁ということで言えば (さらに海外在住つながりもある) 、最近ある人のことを知った。Persikamomoさんという女性で、いろいろなかたちで探求を続けてきて、最近になって探求が終わったそうだ。
メールでやりとりをさせてもらっているけれど、見ている側と見られているものという最後の二元性で行き詰まっていた状態をどう突破したのか等、僕にはすごく興味深い。
そのPersikamomoさんがブログを始められた。「発見」のフレッシュさと、なんともいえない落ち着いた目線、優しさが同居しているところが魅力的。
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今月15日発売のスターピープルの55号を送ってもらった。アメリカ人の某著者の連絡先を知りたいというリクエストに応えただけなのに、一冊いただいてしまって申し訳ない感じだけれど、ノンデュアリティ特集ということで、さっそく目を通した。
僕は髙木悠鼓さんのファンだからまっさきに彼女の記事を読んだが、J・クリシュナムルティを「投げ捨てた」経緯、それと、一種のブームになっている感じの非二元の近年の動きをスルーしている点がすごく面白かった。
それから、4人の女性による「サットサン&リトリート体験談」、アメリカでトラック運転手をされている久司典夫さん (久司道夫氏のご子息) の記事、さらに、非二元への関心の高まりとよくある誤解について溝口あゆかさんが書かれた文章は、かなり興味をもって読んだ。
ちなみに、この特集には「ティーチャー&覚者名鑑」ということで現代のいわゆる先生たちの名前と写真がずらりと載っているのだが、そこにOSHOもJ・クリシュナムルティもダグラス・ハーディングもないのは驚きだった。逆に、(差し障りがありそうだから削除)。
それはいいとして、ステファン・ボディアンの素晴らしいインタビュー記事もあって(ジェフ・フォスターよりも、こっちをもっとたくさん読みたかった)、非二元の最近の表現に関心がある人なら間違いなく楽しるはず。それ以外の特集については読んでいないしノーコメント。
ヒロさんこんにちは。普段、冷え取り療法で寝るときも靴下を履き続けている私ですがベランダで裸足で幸せな時間を過ごしております。
今朝、いきなり思い立って子どもらが学校に行った隙に茅ヶ崎から藤沢のジュンク堂までチャリで行ってみたらば、「これのこと」がはからずもありました。
慌てて帰ってきて、まだ93頁までしか読んでないのですが、箱根の噴火とかの恐れの考えなどを噴火させないですみました。
毎度ありがとうございます。
スズキヒロコさん、こんにちは。
『これのこと』がジュンク堂に置いてあってよかったです。読んでいただいて嬉しいです。
裸足の効用はたしかにありそうな気がします。僕は今日は地元の温泉にゆっくりつかり、尻アーシング(?)をしてきました。
ヒロさん こんにちは。
アーシング記事を読んでいて ふと、以前 別府でお湯めぐりをしたときの事を思い出しました。
砂湯を初めて体験してみたんですが、
自分でスコップを使い、足元からすっぽりと全身に砂をかけていって、最後は完全に自分の手で自分を埋めた形になり、そのまま気持ち良く眠ってしまいました。
サラサラした砂の重みや、温泉の蒸気でじわじわ温もってくる感じがとても印象的で、なんだか身体と砂が同化してる感じで不思議でした。
自然にふれるのは リラックス効果があって良いですね。
ネムノキさん、こんにちは。
別府にも砂湯があるんですね。究極のアーシングという感じがします (僕は指宿の砂蒸しには行ったことがありますが、怖い気がして結局試しませんでした)。
アーシングを突き詰めていくと、アーシングをする主体がなくなってただの通り道になり、そのうち道もなくなってただの「ある」になりそうです。