ちょっと意地の悪い性格をしているせいか、ほかの人が何かを大切にしているのを見ると、つい「それってそんなに大事なの?」というアングルから見てしまうことがある。
ラマナとかニサルガダッタを大切に思っている人とか、あるいは真面目なカトリックの人とか一部の (一部!) 仏教好きな人とか、そういう人に出会うと、すぐにそんな気持ちが出てくる。
ジョーイ・ロットもいろいろなところで「ラマナ信仰」や「ヨガ礼賛」をジョークのネタにしたりしているから、そういう意地悪い感覚が彼にもちょっとあるのかなと思っていた。でも、そういうことではないようだ。その点についての質疑があったから紹介したい。
Q&A動画シリーズの最新作 (Episode 6) で、ニサルガダッタのI Amについての質問が出たときにジョーイが笑っていたことについて、彼のブログのコメント欄での応答。
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Q. ニサルガダッタ・マハラジについての質問が来たときに喜んでいたのはなぜ?
A. それは、ニサルガダッタは非二元好きな人たちにとってのイエス・キリスト、つまりレジェンドだから。ニサルガダッタが言ったとされているあらゆる言葉が「崇拝すべき無謬のお言葉」として扱われている。でも僕らがいつも忘れてしまうのは、ものごとについてどんな考えを持っているとしても、それがただの考えであって現実じゃないってことだ。それにもっと言えば、ニサルガダッタが話してたのは英語じゃない。つまり僕らが読んでるのは翻訳を経た言葉だし、その中には不正確なものもあるって言われている。「私は『祝福しなさい』と言ったんです!」っていうオチの冗談を思い出すね。
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最後のcelebrateの冗談については、こちらのページ参照 (ちょっとバージョンは違う) 。
最近、久々にルパート・スパイラのウェブサイトを眺めていたら、ミーティングやリトリートでのしゃべりを録音して販売しているコーナーでちょっとしたことに気づいた。ここ何か月かのトークの題名がこんな感じになっている。
「純粋な知の燦然たる空の輝きはどんな経験においても損なわれない」
「純粋な知という燦然と輝く空の領域はあらゆる経験の完全性である」
「神の永遠で無限の精神は唯一の真の精神である」
高名な陶芸家だから、芸術風味のタイトルになるというのは当たり前かもしれない。でも、ここまで来るとちょっと、という感じもする。
トニーやジョーイも極端と言えば極端かもしれないが、ルパートのこれも逆にやりすぎと言うか、風味のつけすぎに見える。
このあたりは好みの問題だし、どっちが優れているという話ではない。それこそ言葉は現実とは違う。だから、いろいろあるということ自体をありがたく感じるべき話なのかもしれない。
でも、In Deepで読んだ、いわゆる聖なるものがたてつづけにぶっ壊されているという様相 (この記事の「自然現象 vs 聖なるもの」の項目) についてはちょっと興味深く感じた。トニーが「あらゆる権威が破壊される時代になっている (見かけの上でだよ!) 」とかなり嬉しそうに言っていたのも思い出す。
と、太陽がギラギラしていた時期は非二元のことに対する興味はどこかに消えてしまっていたけれど、金木犀が香りだしたころからなんとなく戻ってきたのかなという感じがある。
ヒロさん、いつもとても楽しみにブログの更新を待っています。
「ただそのままでいるための超簡約指南」読みました!
読みやすい、読んでいてほっとするのがヒロさんの訳のおかげなのでしょうね。
私は「ユーフィーリング」からずっとヒロさんのファンで、「非二元」という言葉を知ったのも
こちらのブログからです。ニサルガダッタやラメッシ・バルセカールも読みました。
ジョーイ・ロットやジョーン・トリフソンの訳がとても大好きです。
私は現在ヌーソロジーという半田広宣さんが提唱している宇宙論と同時進行で非二元の世界を
楽しませていただいています。瞑想やボディーワークなども経験してきましたが、常に何かが
まだ足りないように感じられていました。今は探していた物自体が「それ」自身だったということがなんだか嬉しくて渇望がやわらいだ気がします。ありがとうございます。
これからもヒロさんのセレクト勘を楽しみにしています。
ヒロさんこんにちは。
Sっ気のある書き出しが面白かったので、つい投稿してしまいました(^_^;)
ルパートのタイトル郡は本当に煌びやか…!
「超簡約指南」、二周目を読んでいる所ですが、余分な物をとことん削いで芯だけキレイに残ったような内容がとてもシンプルで潔い本だと思いました。再読する度に、自分の中に浸透してくような文章が心地良いです。
「心の痛みがなくなる場所を物語の中で探し続けてしまう~」は、「あるある!」と思わずハッと気づかされました。
超現実的な傑作だと思います!
翻訳お疲れ様でした!