ルパート・スパイラのインタビュー (Paula Marvelly)

 
ルパート・スパイラ (Rupert Spira) のウェブサイトからQ&Aの一部を紹介してきましたが、より包括的に彼のメッセージを知ることができるインタビューがありますので、許可を得て翻訳して紹介します。2010年6月にPaula Marvellyという人がインタビューしたもので、advaita.org.ukに最初に掲載されました。

Interview with Paula Marvelly – June 2010

原文の中で大文字で始まる単語(Awareness, Being, Presence等)は太字で示しています。

以下、インタビューです。

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Q. 16歳までどのようなことがあったのか、教えていただけますか。

A. 私が育ったのは大きくて仲の良い家庭でした。両親は優しくて思いやりがあり、それぞれとても異なった形で、できるかぎりのものを子どもたちに与えてくれました。私の子供時代は基本的に幸せで自由なものでした。

両親は私が6歳のときに別れ、私はハンプシャーで母と暮らしました。でも、父とも頻繁に会っていました。母は変わっていて芸術的で、スピリチュアルなことに深い関心を持っています。父はより慎重で、普通の人です。私はふたりから多くのことを学びました。

Q. 16歳で瞑想を始めたそうですが、そのきっかけとなったような特定のこと、ひょっとしたら出来事かもしれませんが、そういう何かがあったのでしょうか。

A. 15歳のときに、科学教育のなかで自分が目指していた人生に幻滅しました。それと同時に、マイケル・カーデュの作品の展示を見て、それまでに遭遇したものからは受けたことのないような想像力がかきたてられました。さらにルーミーやシャンカラチャリヤの著作も読み始め、それによって自分自身の中のまったく新しい可能性の感覚が目覚めました。

Q. 数ある中でも、特にルーミー、グルジェフ、ウスペンスキー、クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、シャンカラチャリヤの本を読み始めたそうですね。彼らの書いたことのなかで、どのような部分と共鳴したのでしょうか。

A. どういうわけか、自分の読んでいるのは真実なのだという確かな直観がありました。彼らの言葉は自分のなかで強く共鳴し、彼らが話していることは何なのかを自分で理解したいという強烈な願望に火がつきました。

Q. 科学の分野で仕事をしようとしていたのに、それが正しい道とは感じられなくなったということですが、なぜでしょうか。科学のどのようなところに興味が惹かれなくなったのですか。

A. 科学を拒絶したというよりは、むしろ芸術に魅了されたのです。芸術は私の知性だけでなく、私の全存在を魅了したようでした。芸術は、科学にはできないような形で経験のもっとも深い領域を探究し表現する方法をもたらしてくれるものだと感じたのです。

Q. あなたは芸術学校に通いましたが、刺激になった特定の分野はありましたか。おそらく陶器や陶芸だったのだと思いますが、それはなぜでしょうか。

A. 私は最初にマイケル・カーデュの作品に出会い、後に中国、韓国、日本、そしてペルシャの古い伝統的な作品を見ました。当時の私の反応は本能的で言葉にならないもので、ただ私の存在の深いところから出てくる間違いようのない「イエス」でした。

そういった作品は知性と愛と美が凝縮されたもののようでした。私はそうした作品を見ながら美術館で何時間も過ごしたものです。ときおり私は作品の前で自分の身体が溶けてしまうような感覚を感じました。それは何年も経ってから私の先生のサットサンで経験したのとまったく同じものでした。

Q. あなたは、シャンタナンダ・サラスワティ師(「北のシャンカラチャリヤ」と呼ばれる)の指導のもとでフランシス・ロールズ博士によって設立されたスタディー・ソサエティ(研究会)に長年所属していました。そこではどのような哲学・教えを学び、それはどのような助けになったのでしょうか。

A. 私がスタディー・ソサエティに入った頃は、ウスペンスキーの教えの最後の名残が消え、代わりにシャンカラチャリヤのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ ― これはウスペンスキーの教えのもとになっていると考えられていたのですが ― が中心になりつつありました。私は教えに没頭し、またグルジェフのムーヴメンツやメヴレヴィー教団の旋回も学びました。それは美しく黙想的な運動訓練でした。

そういった教えは私の故郷でした。私はその教えの中に生き、教えは私の中で生きていました。

Q. 美術学校を去った後、あなたは芸術家として生計を立てていました。美は霊性とつながりがあり、芸術家として生きることはその考えを現実のものとする方法だと信じていたそうですね。これはキーツの詩の一節を思い出させます。

美は真実、真実は美 ― それがすべて
あなたが知り、知っておくべきことのすべて

これについてもう少し詳しく説明していただけますか。

A. 私たちの見かけ上の客観的な経験は、思考と感覚と知覚とで構成されています。それはマインド、身体、世界です。

気づき(Awareness)が考え「として現れる」とき、それは思考になったように見えます。気づきが感じるということ「として現れる」とき、それは身体になったように見えます。そして気づきが知覚「として現れる」とき、それは物体、他者、世界になったように見えます。

考えがおさまったとき、その見かけ上の客観的な部分(思考の部分)は消えますが、その実体である気づきは残ります。時を超えたその瞬間(マインドがそこにないために時を超越しています)、気づきはそれ自身をありのままに味わい、それは思考という見かけ上の客観性を仲介していません。この経験は理解(Understanding)として知られています。

感じることが止まったとき、その見かけ上の客観的な部分(感覚または身体の部分)は消え去り、その実体である気づきが残り、その気づきはそれ自身を(Love)または幸福(Happiness)として知ります。

そして知覚することが止まったとき、物体、他者、世界は消え、それらの実体である気づきは残り、それはありのままに自身を知り、物体の見かけに曇らされることはありません。これが(Beauty)として知られる経験です。

言い換えると、理解幸福は、ひとつの同じ経験、気づきの現前、自己の存在(Being)の認識につけられた異なる名前です。

理解を通る道(ジニャーナとバクティの道)についてはこれまでにも沢山書かれていますが、知覚を通じての道はあまり触れられることがありません。知覚の道またはの方法が芸術家の道です。

それは、すべての知覚の実体が気づきで作られていることが明確になる道であり、それを通してそのことが表現される道です。

すべての見かけの物体は気づきからつくられているのですが、相対的なレベルでは、このことを明らかにすることが物体の機能であるとは言えません。たとえば、やかんの目的はお湯を沸かすことであり、経験の本質を明らかにすることではありません。ただ、さまざまな物体の中には一つのカテゴリーがあって、そのカテゴリーに属するものは経験の本質を明らかにすることを特に意図して作られたものであり、そうしたものを私たちは芸術作品と呼びます。

芸術作品の機能は、経験の本質を指し示すだけでなく、そうした性質を実際に明らかにすることです。セザンヌが言ったように、その機能は「私たちに永遠(Eternity)を経験させる」ことです。

教えの言葉のように、芸術作品はその起源、それが生まれてきたもとである静寂と愛に満ちたものであり、それ自体とてつもなく力強いものです。

したがって、というものは、それを通してすべての見かけ上の物がそれを知るものから作られているということを私たちに知らせ、感じさせる経験なのです。

キーツが「美は真実、真実は美」としたのは適切でした。真実(Truth)の経験と美の経験はひとつであり、同じ経験です。

「それがあなたが知っていることのすべて」ということについてもそうです。マインド(真実の表現です)と世界(の表現です)はひとつのものです。つまり、見かけ上の「知るもの」と見かけ上の「知られるもの」はひとつです。そのことを認識していようとしていまいと、これが常に私たちの経験するところです。それは、キーツが言った通り、「あなたが知っていることのすべて」で、すべての見かけ上の物の中に宿る私たち自身の存在、すべての見かけ上の物としての私たち自身の存在を知っているということです。

「そしてあなたが知っておくべきことのすべて」もそうです。この知識だけで、もしそれが深く考察され、自分のものとなり、そしてすべての状況に適用されるのであれば、健全で幸せで愛情のある生活を送ることができます。

キーツは私よりも言葉をかなり節約できていましたね!

* * *

これまで現れた卓越した芸術家たちは、キーツもその一人ですが、おそらく私たちの文化においてこの知識をもっとも強力に伝達する媒体だったのでしょう。ただ、それをするためだけに存在したというわけではありません。

経験の本質に関するこの経験に基づく知識は、実際のところはすべての人が持っているのですが、ときとして忘れられているように見えます。でも、これは表面から遠いところにあるわけではなく、音楽やファッションといったような大衆的な文化においても、私たちは幸福に対する同じ切望をみることができます。これらすべては、ただ私たちのもっとも深奥の存在の本質に戻りたいという憧憬の様々な現れなのです。

この幸福が、「私」という存在が現れることによって見かけの上で隠されてしまうとき、「私」はいっそう大声で泣き叫びます。現在の文化のなかで私たちをとりまいているのは、本当は彼らのハートにあるものを誤った場所で必死に探している「愛を求める叫び」です。

Q. 私自身のことですが、私はスタディー・ソサエティの姉妹校であるスクール・オブ・エコノミック・サイエンスに通ったのですが、そこでも美が重視されていました。美が、ハートが開く上でのひとつの方法であるということには私も同意しますが、そのことは人生における他のあまり美しくないことを排除してしまうのではないだろうかとも感じます。日常生活のレベルでは、身体的な完璧さを崇拝することが、自分や他の人たちの身体に対する態度を文字通り歪めていて、それは非常に大きな苦しみを引き起こしています。女性として、私は自分の身体の見かけによって絶えず評価され続けていると感じます。

A. 身体的な完璧さの崇拝は、についての私たちの生来の認識の色あせた影であり、誤った解釈です。私たちが気づきが今あるということを忘れるとき、は物体の状態に格下げされます。それは、気づきが見かけの上で忘れられたときに、自己、他者、物体と世界が実在するかのように見えてしまうのとまさしく同じことです。

が物体の性質であると考えられてしまうとき、それは単に醜さの反対であるということになります。現代のアドヴァイタの表現の中でも、このことが誤解されていることがあり、そうした教えの表現においてはが客観的な経験に格下げされ、単なるひとつの「気づきの中でのあらわれ」にすぎないとみなされています。

でも、そうではありません。気づきのもう一つの名前であり、私たちの自己の存在の認識です。

そして同じように私たちが誰かを愛するとき、それはまさに「他者」のなかの自己(Self)が愛されているということです。そして愛している主体は自己です。これは、自己が愛するものであり愛されるものであるということです。別の言葉で言うと、それはそのものであり、他者がないものです。それがの何たるかであり、それは見かけ上の他者が不在であることです。私たちすべてが、の中に溶けるという体験を知っています。私たちを分離させバラバラにさせているものすべてが溶け、その溶解は、俗な言い回しにおいてさえ、として知られています。もちろんマインドが戻ってくると、マインドは非物質的で時間を超えたの経験を私物化して、そこから愛する者と愛される者を作り出し、それからそのものの経験はなぜ消えてしまったのだろうかといぶかるのです!

したがって、はひとつの同じ経験です。私たちの文化においてだけこのことが見落とされ、は物に成り下がっています。の本質の認識の炎はまだハートの中で燃えているのですが、あなたが指摘したような身体的完璧さの崇拝は、この誤解から生じています。

シェイクスピアはこのことをよく知っていました。「すべてのことはあるように見えるが、あるわけではない。美は誇示するが、彼女が誇示しているのではない。」

すべてのものはそれ自体として気づきから分離して独立して存在しているように見えますが、実際はそうではありません。見かけ上の物体の「存在性」は気づきにのみ属しています。

「美は誇示する」というのは、物体に属しているように見える美(Beautyでなく小文字で始まるbeauty) は誇示して、実在するものであるかのように装い、物体へ注意をひきつけますが、「彼女が誇示しているのではない」、つまりそれは彼女ではなく、ハートの真実の愛、物質を超えたそのものが誇示しているのです。

Q. その期間、あなたには真理の模範があり、そして生活をするということ(人間関係、家族、収入を得る等)があったということですが、事実上そのふたつの間で分裂があったということになります。これについて説明をお願いします。

A. 私の模範となったのは前の時代の外国の偉大な聖人たちで、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ、ルーミーといった人たちでした。しばらくの間、私は彼らの理解の文化的な表現と、真理そのものを取り違えていました。

私は、真理に至るためには世間から目を逸らさなくてはいけないと感じていました。このような態度はいくつかの伝統的な教えで大切にされています。私たちの多くにとっては、最初は、世界を知っているのは身体・マインドであるところの「私」であるという信念と感覚が、「私」は身体・マインド・世界に気がついている観照する気づきであるという経験的な理解にとって代わられます。

このことを明確に理解するためには、一時的に身体・マインド・世界と見かけ上の距離を置くことが必要かもしれません。言ってみれば、私たちが観照する者であり、観照される者ではないということを経験に基づいて確立するためです。多くの人にとって、私の場合もそうでしたが、この観照者としての姿勢は重要なステップであり、気づきの存在と優位性を確立させます。

この姿勢は、いくつかの修道院的な伝統においては大事にされていて、そこでは気づきの存在に集中するために、世界やそして身体でさえも否定されます。

しかし、こうした姿勢においては、知覚する気づきの「私」と知覚される物体、他者、世界との間の二元性が微妙ですが前提とされています。この区別は、時間が経つにつれて自然に溶解することもあれば、経験の更なる探究の結果として溶解したりすることもあります。いずれにおいても、結果は気づきが身体・マインド・世界に完全に飽和することになります(実際はずっとこうであったのですが、それは理解されず、そうであるとも感じられていなかったということです)。そこにおいては、身体・マインド・世界はもはや危険であるとも脅威であるとも信じられることも感じられることもなくなり、ふたたび完全に受け入れることができるようになります。

Q. なぜスタディー・ソサエティをやめたのでしょうか。何かが欠けていると感じたそうですが。

A. はい、まだ距離がありました。私はいわば教えを完全には自身のものとすることができなかったのです。

Q. その後、フランシス・ルシールとの出会いがありました。それはどんな助けになったのですか。

A. この出会いにおける何かによって、自分が不滅であり制限もなく位置も持っていないということが明確になりました。この発見の思わぬ結果として、助けをもとめていた「私」は存在していなかったことが分かりました。

Q. あなたは自分が自己認識している、または悟っていると思いますか?(他に適当な言葉が見つからないので)

A. 「はい」という答えも「いいえ」という答えも、悟っている人もしくは悟っていない人が存在していることを前提としています。そのような人が不在であるとき、そこにはすべての見かけ上のものに光を灯す(悟らせる)(Light)だけが残ります。もっとはっきり言えば、その光は時間の中で「残る」わけではありません。それはすべての経験の永遠の現実であることが理解されます。それは経験です。

Q. 自己認識する、あるいは悟るというのはどういう意味ですか?

A. そうした言葉はいろいろな意味で使われます。私が使うときにはこういう意味で使います。

悟っているというのは、気づきとして自己を理解していること、この気づきが不滅で制限がなく位置を超越しているということを理解していることを意味します。

自己認識しているというのは、経験に基づいた理解に従って考え、感じ、行動するということです。

悟りは即時ではないかもしれませんが、瞬間的なものです。自己認識には見かけ上の時間がかかり、分離した存在としての思考や感情や行動や人間関係の古い習慣の段階的な解消を伴います。その結果として、マインド・身体・世界と、すべての見かけ上の物事の唯一の観照者であり実体である自己、気づきの経験的な理解との再調整も伴います。

Q. 私が自己認識しておらず、悟ってもいないのはなぜでしょうか。

A. まさにその質問のためです。その質問において、あなたは自分が気づきの光とは別の分離した存在であるという前提にたっています。この前提は、「人」とか「分離した存在」として知られていて、気づきが自己の存在を知っていることに内在する幸福を隠しているようにみえます。

このような幸福の見かけ上の覆いは、悟りの探求または悟っていないという感覚と同じ意味です。その探求が分離した存在そのものであり、探求とは分離した存在がおこなう何かではありません。

私たちが自身をそのような存在であると想像した時点で、マインド・身体・世界といった対象の中に幸福を探すことは避けられなくなります。私たち自身がそういう存在であると信じ、そう感じているときに、それと同時に「自分は何も探していない」と信じたり感じたりするならば、私たちはただ自分を欺いていることになります。今を巧妙に拒絶しながら ― そういう拒絶は探求の別名ですが ― 、そのように拒否していることを非二元という新しい信念の下に隠しているだけです。

でも、この探求はいずれ終わりを迎えます ― ほとんどの場合、苦しみと探求の結果として ― 。ここにおいて、私たちは言わば振り返って、探求しているまさにその人自身に疑問を持ち、そのような人がまったく存在していないことを理解します。分離した自己の「私」を見つけられるはずのその場所に、気づきとしての「私」を見つけるのです。

この時点までは、私たちが自分自身であると信じて感じている分離した存在が探求をしてきたように感じられるのは避けられません。しかし、見かけ上の分離した存在がこの探求という行動をしてきたのだということを譲って認めたとしても、それ以上のことはしていません。実際のところ、このことさえも本当はしていません。存在していない存在が何をすることができるでしょうか?でも、分離の感覚がまだ残っている間は、「すべきことは何もない」という観念を受け入れることには慎重であるべきです。

Q. どのようにしたら自己認識や悟りを獲得できるでしょうか。

A. 悟りが獲得できるものであると考えるためには、それが失われているとまず信じなくてはいけません。悟りが失われてしまったと信じると、私たちは当然ですが、自分とは必然的に幸福を求めている分離した存在なのだととらえます。この探求は、私たちがそういうものであるとみなしている分離した存在 ― 不幸であると感じています ― を中心に展開します。ですから、このような場合にすることができる最善のことは、この幸福を切望している不幸な自分のほうに向きを変えることです。私たちが自分がそれであるとよく知っているこの「私」の方を向くと、そこに分離した存在は見つかりません。気づき実在(Presence)を見つけます。そして、気づきを見つけているのは何でしょうか?気づきは「そこ」に存在し、気づきに気づくことができる唯一のものです。

この自己認識と同時に、気づきは実のところいつでも自己のみを知っていたという認識がやってきて、そのとき私たちはいかなる無知もあったことはなかったのだと本当に言うことができます。

ただし、この認識が起こるまでは、自分自身が必然的に幸福を探求している個人であると感じていることを認めるのは、より誠実なことでしょう。この見かけ上の個人が、言わばその存在の源泉の方に向きを変えると、蛾が炎に飛び込むように、この想像上の存在はそのなかに溶け去るようにみえます。

そのとき初めて、そもそも存在は一度も存在したことはなかったということを私たちは理解します。そして存在の源泉の方に向きを変えた人はだれもいなかったことが理解されます。ずっと実在(Presence)があっただけで、それは分離を信じることで自己を見かけの上で隠しながら、そしてその本質の認識によって見かけの上で覆いを取り去りながら、ありました。でも本当のところは、自身の自己以外を知ったり、それ以外のものとして存在していたことは一瞬たりともなかったのです。

Q. 先生は必要でしょうか。

A. ほとんどの場合は必要です。

ほとんどの人にとっては、アイデンティティは身体とマインドに密接に独占的に結び付けられているので、私たちの本当のアイデンティティが気づきであることを指し示すという点で友人の助けは必要です。

友人や先生の助けなしに本質というものに自然発生的に目覚めた人たちにとっても、その自己の本質の非物質的な認識の後で、そのような友人の存在はマインド・身体・世界とこの新しい観点との再調整を大いに促してくれます。

Q. あなたのミーティングに来る人々のことをどのように考えていますか。彼らはどういうことをあなたに期待できるのでしょうか。

A. 私は自分自身を見るように彼らを見ます。それは気づきとしての彼らであり私です。何を期待できるでしょうか? 分離した存在ではなく、気づきとして見られ、扱われることを期待することができます。これは会話を伴うかもしれませんし、伴わないかもしれませんが、それはあまり重要なことではありません。

Q. あなたの教えは伝統的なアドヴァイタ、ネオアドヴァイタ、ダイレクトパス、あるいは何か他のものと等しいと考えていますか。

A. そうした道や教えのいずれにおいても、自身の存在(Being)を知っていることに固有の理解が存在しています。それが表現される方法はそれぞれまったく異なります。私は自身をすべての真実の教えの中心にある理解と結びつけていますが、特定の形式や表現とは結びつけていません。

この理解から生じていることであれば、何を聞いても何を見ても、それがどのような形で表現されているかには関係なく、私のハートは何度でも何度でもとろけてしまいます。

Q. あなたの教え方はどのようなものですか。

A. 私がミーティングにのぞむときは、黙って座り、最初の考え ― たいていは経験の性質についての簡潔な熟考という形になります ― が現れるのを待ちます。

質問が出た場合は、想像のなかで質問の中心に向かいます。私が質問になります。私はその質問を自分の経験にささげ、その場所から応答します。

質問に対して文字で答える場合も同じです。質問を深いところで感じ、経験から答えます。

Q. あなたの生徒にどんなことをするように言っていますか(訓練、精神的準備、瞑想など)?

A. 私には処方箋も公式も決められた練習方法もありません。ただ、大まかに言うと二つの側面があります。ひとつは、私たちは何であるのかということ、私たちは気づきであるということを理解することです。これは、「私」が不滅で目覚めていて制限もなく位置も持たないということに気がつくことです。もうひとつは、この気づきは単に観照者であるだけでなく、同時にすべての見かけ上のものごとの実体だということに気がつくことです。

私たちが気づきではなく何か他のものであり分離して独立した存在であるという信念や感覚は、私たち自身の存在の認識を曇らせるようにみえます。その結果として、そこにある平安幸福も曇らせます。ミーティングでは、私たち自身が非個人的で不滅の気づきであることをまず理解し、その気づきとして存在しながら、そうした理解と違ったことを示唆しているような信念や感覚を調べて探究します。

Q. そうしたことをおこなうことによって、自己認識や悟りが実現しますか?

A. マインドによるどのような行為も(または逆に何を止めても)悟りをもたらすことはありません。マインドにできるのは、それ自体の信念体系を探究し、それが実在については何も理解していない ― と同時にマインドは実在の表れでもあるのですが ― という結論に達することくらいです。

このことがはっきりと理解されると、マインドは苦労なしに自然に終わりを迎え、そのとき私たちは自身が開かれていて、有効で、知らず、存在していることに気がつきます。

この開放性のなかでは、マインドがそこにはないため、待つことも期待することもありません。ただ存在(Being)、実在(Presence)があるだけです。そしてこの実在を知るものは、なんであれすべてそれ自身が実在です。これは、唯一そこに存在するものが自身を知っているということです。つまり、そこには自己の存在を知っている実在しか存在しないということです。それはそれ自体に気がついています。

マインドが戻ってくると、マインドはこの自己の存在の非物質的な体験を自分の功績にしてしまい、マインドが不在のときに感じた幸福平安(Peace)を再び経験しようとして、あらゆる種類の手法や訓練をひねりだします。

ですから、言葉のレベルでは、教えのなかでこうした誤った信念や感覚に取り組みます。誤っているというのは、そうした信念や観念が架空の存在を中心にして展開しているという意味です。この取り組みでは、自分が分離した存在であるという信念をマインドのレベルで調べ、身体レベルでの「私」という感覚と物質世界のレベルでの「私以外」という感覚を探究します。つまり、経験のあらゆる領域での現実の本質を探究するということです。

ただし、これは結果をもたらすためにおこなうわけではなく、単に経験の性質をはっきり理解するためにおこなうことです。

自分は個人なのだと考えていると、この静寂がマインドの行為によってもたらされたのだと必然的に感じるでしょう。でも、後にはマインドが何もしていなかったことがはっきりします。実在がマインドを投影し、実在がマインドを引き下がらせます。

まず、マインドが不在のとき、実在は自身の存在を知っているだけであるかのように見えます。後に、実在は常に自身の自己(Self)のみを知っているということが明確になります。

Q. ラマナのセルフ・エンクワイアリー(自己の調査、自己探究、真我探求)についてどう思いますか?

A. 自然な状態というのは、本質的な自己を逆さまにしてあるがままに抵抗したり、世界内で対象を追い求めることによってあるがままをどうにかしようとしたりすることもなく、ただ単にあることです。

でも、自分が分離した存在であると考えていたり感じていたりすると、抵抗や探求は避けることができません。言い換えると、単にあるがままでいるかわりに、失われたと信じてしまっている幸福を探し始めるということです。

そのようなものとして、身体、マインド、世界という対象のなかに平安幸福を探すことの無益さを深く理解したときに、見かけ上の存在として私たちにできる最善のことは、私たちが自分であると思っているその存在自体、探求しているその主体を調べるということです。この探求は、自身の存在のもとでその探求自体を消滅させます。

このように、セルフ・エンクワイアリーは探求の過程にあるマインドがおこなうことができる中では最高の行為です。ただし、セルフ・エンクワイアリーは、自分は非個人的で不滅の気づきであるという発見によって終わるわけではありません。それは、私たちが非個人的な気づきであるという経験に基づく理解と、マインド・身体・世界との再調整を促す非個人的な活動として、続きます。

Q. 教えたことが成熟するためには一定の時間が必要でしょうか(伝統的なアドヴァイタや教師やグルとの関係にみられるように)、それとも一種の理解はいつでも起こり得るでしょうか(ネオアドヴァイタやサットサン型のやり方にみられるように)。

A. 両方です。悟りはいつでも瞬間的です。それどころか、探求の期間を経ることもそうでないこともありますが、悟りは時間を超越しています。

私たちの自己の存在を非客観的に認識した後、いわばマインド・身体・世界とこの新しい経験的な理解とを再編成するプロセスが時間のなかで起こります。

存在の認識が起こる前に長期に渡って調査と探究をしていた場合は、身体とマインドがこの経験的な理解にすでに十分に調整されていることがあり、認識が起こっても大した適応の過程は要りません。

この認識が準備なしに、またはほとんど準備していないときに自然に起こった場合は、マインドと身体はこの認識によって完全に混乱し、その結果再調整にはより長い時間が必要とされるでしょう。

と言っても、決まりも公式もありません。どんなことでも起こりえます!

Q. 悟りを求める人はどのような生活を送るべきでしょうか。

A. それは、悟りを求める気持ちの強さによります。本当のところはすべての人が悟りを求めていて、それはただ幸福の探求ということです。ほとんどの人は物質の領域で幸福を探します。つまり、マインド、身体、世界の領域です。

物質の領域には幸福がないということが明らかになると、それまでは外側の物質に向かっていたすべてのエネルギーが集められ、源泉の方に向きを変えます。

あるところに至るとこれは心を奪うようになり、ハートの内にとても激しいものが生じます。

なにがこの真理への愛に火をつけるのか、私には分かりません。それはまさに実在からの贈り物です。

Q. では意識(Consciousness)とは何でしょうか?

A. 意識は、私たちの自身の存在の親密さです。それは「私」とよばれています(この「私」は身体やマインドと取り違えらることもありますが)。それはまた多くの別名を持っています ― 平安幸福といったような ― 。

それは、この一瞬一瞬にこの言葉を見ているものであり、どんなことであれ経験されていることを経験しているものです。

調べてみると、それは単に見かけ上のものごとの観照者であるだけでなく、そうしたものごとの実体であり本質であるということが分かります。

そうなると、ではこれらの見かけ上のものごととは一体何なのかと尋ねるでしょうが、そうしたものはそもそもそのようなものとして存在していたことは一度もなかったと分かるでしょう。

いまや意識がすべてであるという理解のみが残ります。でもこの「すべて」とは何でしょうか。「すべて」というものはありません。あるのは意識だけで、それが明確になると、もはやそれを概念化する必要はなくなります。というのは、対比したり区別したりする他のなにも存在しないからです。この時点ではいかなる概念化もまた巧妙な対象化のひとつになってしまうでしょう。

ここにおいて私たちはただ静寂のなかにいます。

Q. 次の文章はどのような意味でしょうか。

意識は、それが分離した存在に限定された形で存在するふりをすることによって、それ自身をそれ自身から隠す。それから、ふりをしていることを忘れる」

意識が存在するすべてであり、あるものすべてが意識であるとするならば、全能で全知で遍在である何かが「自身」を忘れるということがありえるでしょうか。これは解決不能なジレンマ、矛盾した状況のようにみえます。

A. 意識が本当に自身を忘れてしまうということは絶対にありません。それはそれ自身の存在以外の何をも知ることはありません。それが、無知 ― 経験の本質を知らないこと ― は幻想であると言われる理由です。意識が自身を忘れるということは起こりえませんが、そのように見えるというだけです。

誰にとって意識が不在であるかのように見えるのでしょうか。マインドにとってです。

マインドは立ち上がって(意識の中で、意識以外の何ものでもないものから作られ)、厳密にすべての経験に浸透している意識が、身体という経験の小さな一部にだけ浸透していると想像します。

言い換えると、マインドは、意識は身体に限定され身体の中に位置するものだと想像し、その信念によって、意識のみに属する「私は存在する」が「私は身体である」になってしまいます。

意識が身体に限定されているというこの信念によって、身体以外のすべてのものは「私でないもの」になります。「私でないもの」は単に世界の別名です。言い換えると、世界というのは、意識であることを見かけの上で忘れてしまっていることに付けた名前です。

ですから、意識の視点からみると ― それは唯一の真実の視点ですが ― 、意識は束縛されることも制限されることも隠されることも忘れられることも不明瞭になることも絶対にありません。一方で、マインドの架空の視点からみると、意識は無くなったり現れたり、隠されたり見つけられたり、束縛されたり自由になったりするように見えます。

とはいえ、マインドの視点はそれ自身の視点から見たときだけ有効であるにすぎません!

意識は、それが分離した存在に限定された形で存在するふりをすることによって、それ自身をそれ自身から隠す。それから、ふりをしていることを忘れる」というのは、この理解を伝えるために書かれました。

Q. 現実とは何でしょうか。

A. 現実とは、どんなものであれ経験の中で実在しているものです。現実が消えることはありえません。というのは、消えた先にそれが行くところはそれよりもっとリアルであるはずだからです。たとえば、金 (ゴールド) は指輪の現実ですが、(たとえ話の限界の中での話ではありますが)指輪はその名前と形を変えてたとえばネックレスになることができるとは言っても、金そのものはそのままであり続け、不変で不滅です。

それと同様に、見かけ上の物体が消えるとき、それがつくられた元となった材料は残ります。経験の真の材料である現実は、来ることも去ることもありません。それには原因がなく(なぜなら、もしそれが何らかの原因によって生じるものであるならば、その何かのほうがそれよりもリアルであるはずです)、それ自身によってしか知られることはありません。

マインドの視点からみると、名前と形は存在しています。経験そのものの視点からみると、あるのは唯一で不滅の現実だけで、それは意識とか気づきと呼ばることがあります。なぜなら、それは気づいていて、実在しているからです。そしてそれは「私」として、よりよく知られています。

では、意識または「私」を知っているのは何なのでしょうか? それは意識または「私」です!

言い換えると、自身を知っていてそれ自身である意識または「私」以外のどのようなものも存在していません。

そしてこの自身を知っていることにおいては、いかなる欠如の可能性も困難の可能性もないため、それは幸福としても知られています。自身の内に動揺の可能性もないため、それは平安としても知られています。また、自身の存在を知ることにおいて他者がある可能性がないため、それはとしても知られています。

ですから、平安幸福、それは私たちが存在を知っていることにつけた名前ですが、それがすべての経験の現実なのです。

あるのはそれ (That) だけです。

Q. あなたは、あるのは経験だけであるという事実について話をします。あなたの著書の副題は、まさに「経験の性質についての熟考」というものです。このことについて詳しく話していただけますか。

A. 私たちが知っていることすべてが経験です。考えられること、感じられること、知覚されえることはすべて経験の範疇に入ります。言い換えると、私たちがマインド、身体、世界のことを知ることができるのは経験を通してです。

経験は、すべてのことを生み出すことに関わっています。見かけ上の個人は、他のすべてのものと同じように、経験を通してのみ知られることができ、それゆえ、その本質は経験されるすべての他のものの本質と等しいに違いありません。その経験の本質は何でしょうか?

私たちが経験の本質に深く入り込むとき、それは私たちの自己の本質でありすべての見かけ上のものごとの本質ですが、そこで私たちは意識だけを見出します。意識がそれ自身を見つけるということです。

実のところ、意識はいつでも自身だけを知り、自身であり、自身を愛しています。架空の存在の架空の視点から見たときだけ、意識が見失われたり見つかったりするのです。

Q. 私たちは自分の経験にどのように対処し、現実というものを理解することができるでしょうか?

A. 私たちは経験を探究することによって経験に対処します。経験を、どんな方法によっても、変えようとしたり操作しようとしたりするのではありません。単純に見ます。本当にあるのは何だろう、と。

こうした公平無私で、しかし愛のある熟慮のなかで、二元化して見るマインドが本質的な経験の上に重ねあわせていた付着物が、ゆっくりと ― ほとんどの場合はですが ― 落ちていき、経験の真実がそれ自体として輝きだします。

ただし、現実を理解するのはマインドではありません。マインドとして存在しながらそれを支えているのは現実です。現実はマインドにも浸透し、それに実体と見かけ上の現実を与え、瞬間瞬間にそれがどのようにあることも認めています。

Q. 現実の性質を理解するための知識は、どのようにしたら得られるでしょうか。知識そのものが二元的であるということではないでしょうか? どのようにこのことを調和させられるでしょうか。

A. 知識は、もしあなたが知識という言葉でマインドにある知識を意味するのであれば、現実の性質を知ることは絶対にできません。

知識はものごとに関するものです。つまり、思考、感覚、知覚についてのものです。そうした知識の本質について深く入っていくと、知っているということだけがあります。知っているという経験について深く入ると、そこには意識だけがあります。

知識を得るであろう「私」または経験の性質を理解するであろう誰かは、思考からのみ生まれることが分かります。

思考が終わったとき、その実質が残ります。それは画像が消えたときスクリーンが残るのと同じです。思考がまた現れたとき、それは意識から創りだされていることが分かります。画像がスクリーンでのみ生まれるのと同じです。

画像はスクリーンを知ることは絶対にできません。同じようにどんな思考も意識を理解することはできません。

知っていること、すべての思考に浸透している知っていること、または経験することの「要素」は意識のみです。思考、感覚、知覚を構成する要素は、意識以外に何もありません。

Q. 神は存在しますか。もし存在するならば、あなたにとって神とはなんでしょうか。

A. 神が存在するということではありません。むしろ、神はあること (Isness) そのものです。神とは、すべての見かけ上のものごとがあることです。見かけ上のものごとが存在していないように見えるとき、あることはただそのままそのようにあり、それは純粋な存在です。

存在があるということを知るためには、存在は知られなくてはなりません。存在を知っていて、存在に気がついているのは存在それ自体です。存在の外側には何も実在することができず、または存在がそれによって知られる何かであれば実在できます。従い、存在はそれ自身を知っています。それは自身を知っていることです。

つまり、知っていること(Knowing)と存在はひとつであり、またはもっと的確に言うと、二つではありません。意識存在は二つではないということです。

それは一つだと言うのは、一言余分です。

見かけ上の「二つ」が溶けるときに残るのが、神として知られているものです。しかし見かけ上の多元性や多様性が再出現するときでも、知っていて知られるのは神のみです。

存在するのは、自身の無限で永遠の存在を知り、それとしてあり、それを愛す神のみであり、他には何もありません。

Q. 自由意志というものはあるでしょうか。

A. 意識は自由そのものです。分離した存在は存在していません。ですから、自由意志を持つ存在も、持たない存在も存在していません。

経験は、うしろに下がってそれを指揮者のように指揮したり、意図したり、選択したり、決定したりする存在がいることを認めるには、親密すぎて直接すぎます。そうした存在が存在するための時間も存在しません。

自由意志という考えは、分離した存在があるという信念に伴う避けられない副作用です。分離した存在があると信じるとき、必然的に、それを知っていようと知ってなかろうと、自由意志があると信じることになります。この見かけ上の存在として、自由意志がないと信じているのであれば、自分は分離した行為者で選択者で決定者であるという深いところにある確信に、そういった信念を上書きしているにすぎません。

分離した存在が実際には存在していないことが明確に理解できると、自由意志という考え方は溶解します。残されるのは意識の自由だけです。

Q. 生まれ変わりを信じますか?

A. 私は肉体化 (肉体としての誕生) を信じていません。まして生まれ変わりなんて!

肉体化とは、意識が身体に宿ってそこに住んでいるという概念です。それは経験であったことはありません。そのような概念を信じるのは無知です。その結果は不幸です。

Q. あなたの著書の中で、ポール・セザンヌの一節が引用されています。

「すべては姿を消し、崩壊しますね? 自然は常に同じですが、自然の中で存続するように見えるものは一つもありません。私たちの芸術は、自然の永続性の感動を、その変化という外観の要素と共に表さなければいけません。芸術は、自然の永遠性を私たちに経験させるものでなくてはならないのです」

これがどのように芸術と関係するかという点について説明していただけますか。

A. セザンヌは、私たちの自然についての知識は断続的な感覚知覚を通したものであるということを言っています。感覚知覚はつかの間のもので、その意味で世界や自然の見かけ上の堅実さは実際に刻々と崩壊し、消えていっています。世界は私たちが知覚するところの世界であり、知覚が消えればすぐに世界は消え去ります。思考が、一連の仮想の知覚をつなぎあわせて、そこから見かけ上の確かで永遠の世界、時間と空間のなかに存在している世界を創り上げているに過ぎません。

セザンヌは、一方で、自然の中にはいつも同じ何かがあるということも認めています。その何かが何であろうと、それは知覚ではありえません。なぜならすべての知覚は固有のもので、断続的だからです。セザンヌは、いわば私たちが自然や世界と呼んでいる断続的な知覚の経験に行き渡っている「いつも同じ」何かがあるという事実を指し示しているのです。

さらに、セザンヌはこの何か、すべての経験に行き渡っているこの不滅の要素は、単に中立的な背景というわけではなく、それが「感動」であると述べています。つまり、喜ばしいということです。彼は、自然または世界の現実は、純粋な喜び(Joy)、至福(Ananda)、幸福そのものであると言っているのです。

セザンヌは正真正銘の非二元論者でした ― 少なくとも彼が絵を描いているときは! ―。

そのようにセザンヌは、芸術の目的は自然の要素、その変化する表現(彼の場合は色ですが)を使い、私たちの経験に存在する不滅のものを直接的に示唆する形を創造することだと言っています。

それどころか、彼はそれがただの暗示や示唆以上のものだと示しています。彼は、芸術はそれよりももっと親密なものだということを言おうとしています。セザンヌが示しているのは、芸術は私たちに経験の不滅性または真実、そして自然の永遠性を経験させるものでなくてはならないということです。

このようにセザンヌは、ものがもつ力 ― それが言葉であろうと絵画であろうと一曲の音楽であろうと、それが真に経験の本質の認識から生じたものであれば ― を認識しているのです。

Q. そしてそれは意識にはどのように関係しますか。

A. 私たちが経験というものを深く探究すれば、自然のなかで経験する不滅の何かは、私たち自身のなかにある不滅の何かと等しいということ、意識と呼ばれているもので、それであることが分かります。

言い換えると、それは私であるものです。

Q. あなたの著書のなかでもう一つ感動した箴言があります。

「すべてが意識であるということを理解したとき、マーヤはダンスを続けるが、それは誘惑のダンスではなく愛のダンスである」

最後に、愛とは何でしょうか。

A. 物体、時間、空間などの外見は続きますが、無知、つまり意識の実在以外に何か他のものが存在するという信念は消えます。そのとき、世界のうわべの多元性や多様性 ― 私たち自身の存在の知識を隠していたそのようなこと ― は今や反転し、そのかわりにいわばそれを表現し、祝福します。

外観は、もはや私たちを二元性、分離、物体、他者といったものがそれ自体でリアルなものであるという信念に誘惑することはなくなり、それによって、それらが私たちを脅かすことも、私たちにとっての幸福の源泉になることもできなくなります。

精神的な恐れや、物体、行為、人間関係を通して幸福をみつけようとする願望は終わりを迎えます。その結果、世界が敵であることがなくなり、「他者」は愛や傷の原因になることもなくなります。物体や人々に対する嫌悪や操作はなくなり、私たちは完全に親密に恐れなしにすべての経験に私たち自身を明け渡すことができます。

このように私たちの存在をすべての外観上のものごとに無条件に預けることは、として知られています。

ウィリアム・ブレイクが次のように言ったのは、この理解からのことです。「永遠は時間の生産物に心を奪われている」

愛は、分離、境界、二元性、他者性といったすべての感覚が溶解したときに残る経験です。そのとき、そもそもそれが存在するすべてだったのだということが理解されます。

本当にあるもの、それが愛です。

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オーソドックスなノンデュアリティ (非二元) の教えと比較すると、かなり美というものに力点が置かれている印象があります。実際のルパート・スパイラ氏の印象もまさにそういう感じで、ややもすればドライな感じを与えかねないアドヴァイタのトークも、彼の口から出ると、何か違ったものになっている感じがしました。

それは、色即是空、すべては空であるという半面で終わってしまっている嫌いがある多くのアドヴァイタの教えの中で、空即是色という面も深く表されている彼の教えの特徴かもしれません。

ルパート・スパイラのインタビュー (Paula Marvelly)」への9件のフィードバック

  1. ヒロさん ありがとうございます。
    今からじっくり読ませていただきます

  2. 丁寧な記事のアップをありがとうございます。
    ただただ美しいです。
    わたしはもともと美術系の勉強をしていたので、ここにきて、このようなかたちでアドヴァイタと美がつながってくるとは感動です。
    もちろん禅的な日本の芸術表現は存在しましたが。
    ブログでこちらを紹介したいのですが、よろしいでしょうか?

  3. とても響くものがあります。
    最近は、思考のおしゃべりが断続的に起こっているので、このような言葉に出会うと、はっとします。
    ありがとうございます。

  4. りょうこさん、読んでいただいてありがとうございます。
    ブログ、もちろんOKです。

    ルパートのYoutubeの動画も、もしまだでしたら見てみてください。
    文字で伝わらないニュアンスがもうちょっと伝わる気がします。

  5. ありがとうございます。
    アップさせていただきました。

    動画もみていました。
    すーっと話がはいってくるなと感じていました。
    頭でなく、感覚から言葉が入ってくるような。

    日本でアドヴァイタが盛り上がっていないのは、言葉のブロックも大きいのでしょうね。。。英語圏ではいろいろなことが起きているのですね。

  6. 英語圏とか欧米にこういったことを求めているというのが、僕の投影、というかここで起こっている投影だということは理解しているつもりです。

    リコネクションだの、DNAアクティベーションだの、はたまたマトリックス・エナジェティクスだのといった横文字が目に入ると何やら違ったありがたいものに見えてしまうのと同じだと思います(新しい名前を見かけるとついつい気になってしまいます。源泉掛け流しの温泉のほうが結局効きそうだとは感じつつ)。

    それに、ラマナやニサルガダッタのように肉体として存在していない人たちには投影をしやすいのと同じように、日本の外の存在に対しては文脈が分からないだけに投影をしやすいということもあると思います。

    でも、実際、日本の禅の本などをちょっと読んでも、インド系グルの教えに接しても、自分には今はあまり響いてこないので、この何の因果か分からない変な欧米志向が起こっているということで、開き直っています。

    それはいいとして、ルパート・スパイラはそういう意味ではあまり国籍というか文化の違いを感じさせない印象があります。陶芸も東方の味わいがあるので、僕らの感覚に近いということかもしれませんが。

  7. なんだか考えさせてしまったみたいでごめんなさい。

    単純に、欧米ではコンファレンスまであって盛り上がっているのに、日本ではなにもないなーと寂しく思っていただけなのです。
    なので、こうしてご紹介いただけているのが嬉しかっただけなのです。

    確かにスパイラは国籍を超えた感覚を持っているなーと感じます。
    日本でまたセラミックのショウとかやらないのですかね。

  8. 日本でも阿部敏郎さんの講演に沢山人が集まっていたり、ラマナに新しく興味を持つ人が増えていたりということもあるようですので、スタイルの違いはあっても、この分野に関する興味は今後高まっていくのかなという気もします。

    ルパート・スパイラは近年アドヴァイタ教師としての人気がずいぶん上昇しているようで、すごく手間がかかる展覧会などはしない雰囲気を感じます。一度彼のイギリスの家にいって作品を見ることができるといいなとは思っています。

    コメントどうもありがとうございます。

  9. ヒロさん、あなたが決めたあなたに感謝します。
    ありがとう。

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